2022年8月30日火曜日

蚊に刺されとく


 

ワンネスと言葉で言うことは簡単だが、

実際ワンネスを生きることはそうとう難しい。


なんしか「私とあなたは同じ」と言うことだからだ。


誰かのことを嫌っている段階ですでにそこには分離がある。

「私はあなたとちがいますっ!」

って言ってるのだから。


蚊が自分の血を吸っているのを見て、ばちんとやるもの分離だ。


蚊が自分の血を吸うことを攻撃的なことされてると思うってことは、

「私の血を、私と違うあなたが持っていかないで!」

と言ってるからだ。


もしひとつと思うなら、血がこっちからあっちへ持っていかれるなど思わないだろう。

(てか、痒いのが嫌なだけかw)


だから蚊が血を吸っても、

ばちんとやらないというアホな実験をしている。

そーやってワンネスを生きてみようとしている(-_-;)。



分離はない。

それを生きることは、兄弟と私は同じ。何一つ違わない。

そう思って生きることだ。


ワンネスを装って生きるよりもむずい。

だけど実験するに値する。(なんでも実験)



友達と私を、何一つ違わないと思いながらあってみる。

目の前にいる友人が、完全無欠。パーフェクトな存在としてみる。


すると、楽しいではないか(笑)。


彼女と私の違う意見があってもそれが気にならない。

だって彼女は完全無欠なんだもん。


この水平の世界に完全に正しいものなどありゃしない。

欠けてないと思えるものなんかない。


完全無欠は垂直な流れにある。

そこに触れることは、言葉などなんの意味も持たない。

言葉によって引き起こされる形もない。




それまでは違いを探してた。

どう違うか、何が間違っているか。

これこそが自我のお誘いだった。


あなたと私はどう違う?と。

ほれ、分離しまくってる。


分離していると信じることは、

相手が何考えているかわからないということ。

それ自体が恐れを生む。


恐れを生むということは防衛が始まる。

防衛と攻撃は同じコインの裏表。

防衛すれば攻撃を呼び込む。


表面上でニコニコしていても、

水面下で無言のバトルが繰り広げられる。

家に帰り着けばだだ疲れ。

心はずっとあいつはどういったこういったと再現フィルムが繰り広げられる。


攻撃すれば自分の心が罪の意識でチクリとする。

攻撃は自分も相手も痛めつける。

(もともと私たちはワンネスだから、

相手に攻撃を加えると私も攻撃されるし、

相手に愛を送ると私も愛される。)


その罪の意識がもやもやするから、

なんとかして自分を正当化しようと躍起になるのだ。

その自分正当化へのドラマが、心の中で疲れ果てるまで繰り返される。



違いを見つけようとする分離の意識から、

みんな同じだというひとつへの移行。


これは同じ水平上にある、同じコインの裏表ではない。


真実への垂直な移行だ。


やっぱ、蚊に刺されとくもんだなあ~。



絵:ペーパーバックの表紙



2022年8月27日土曜日

オロオロする時がチャンス!

 


出来事に動揺するとき、それが考えを変えるチャンスだ。


うわーやっちまった!

と、オロオロする。

その反応は、自分が何を信じているかを教える。


この出来事に対して、「やっぱお前はバカだ」と囁くのは自我。

この出来事を使って、「あなたの信念を訂正していこう」と提案するのは聖霊。


バカだとバッサリ言われたら、ああ、二度とこんなことしないようにしよう~と恐れるだけだけど、その本当の理由を自覚しないのでまた同じことを繰り返す。


しかし聖霊の視点は、そこにどんな信念があなたにあるかを自覚させようとする。



例えば、お金の計算を間違ってはいけないという信念がある。


「当たり前だ。間違ってはいけないだろう。」by自我


お金が多い方がいいという信念がある。


「当たり前だ。少ないよりも多い方がいいだろう。」by自我



ポイントは、その信念があるがゆえに苦しむのだということを自覚すること。

間違ってはいけないという思いや

お金が減ったという思いがあるからこそ、苦しむのだ。


じゃあ、間違わないようにしよう、お金は減らさないようにしようと躍起になる。


これがこの世界の、つまり水平の考え方。

水平の世界には、それを幸せに変える力はない。

いつまでたってもお金が減りはしないだろうか、

何か間違ってはいないだろうかと悩み続ける。


その水平の世界から垂直の世界に心を向ける。

それはお金という概念も、11=2という概念も、間違っているという概念もない。


概念は、この世界に縛り付ける鎖だ。足首にくっついた重りだ。


その自分が信じた概念が、自分を苦しめていることに気がつくと手放したくなる。

だが自分でそれを手放すことはできない。

水平の世界を信じきっている、概念でがんじがらめの私たちにはできない。


私たちではない、その概念を全く信じていない聖霊に訂正してもらう。

それが垂直な流れだ。


手放したいと思う意欲を伝える。

その信念を持って行ってくださいと聖霊に捧げる。

その時扉が開き、押入れの奥に隠されていた信念に光が当たる。


闇は光によって消え、それが取り消された時、

お金が多い少ない、計算が間違っている、等々の考えが力を失い始める。

メタモルフォーゼが始まる。


それを解決することが私たちを幸せにするものではなかったという、

これまでとは違った視点が生まれてくるのだ。


重くのしかかった問題が徐々に軽くなり、この世界の本性がかいま見えてくる。

これは本当に存在していることなのか?という疑問が湧いてくる。


そしてこの世界は自分が作っているのかもしれない。。。

という量子力学的な考えが浮かんでくる。


そしてなぜそれを作らざるを得ないのかというと、

自分を罪人だと信じている思いからきている。

その思いがこの世界を作り上げ、

その中で自分を罰することに終始してるだけなんじゃないのか?と。


つまり私はこの世界に翻弄される被害者ではなく、

そういう風に見たがっている私がいるだけじゃないか。。。?


自作自演がバレ始める(笑)




絵:「松下幸之助」似顔絵





2022年8月24日水曜日

罪悪感おばけ


 

コースを学んでいて、苦しみが出てくる人は、

自分の中にある罪悪感に気づいた人なのではなかろうか。


この世界は罪によって作り上げられたという。


そうであるならば、その材料である罪は、

それを見つけない限り、訂正することはできない。




罪というと聞こえが悪いが、別の言い方をすれば、

分離の意識、分離したい心、自分と人とは分かれていたい思い。


だから自分の中に分離したい思い、罪の意識や闇があるのを見つけたとき、

今まで隠蔽していたあらゆる考えが、どんどんあらわになり、

自分がどれだけ汚く、ずる賢く、いやらしー考えの中で生きていたかを知り始める(笑)。

人はそんな自分の闇の深さや重さに耐えられなくなる。


そんなものがあらわになるコースって、どんだけ~~~~っ!


コースの本は何度も投げつけられると言われる。

あるブログで、コースの本がボロボロになった写真を載せて、

「真剣に学んできた結果のように見えますが、

実は何度も投げつけた結果です(笑)」

と、正直に話している人がいた。



愛を見つける道ではなく、愛の障壁を取り除く道。


愛はすでにそこにあるものなのに、

それを見えなくさせている私たちの考え/障壁を一つづつ取り除いていく道。


私たちの心に見えないように隠してある、見たくないもの、

つまり罪悪感にはっきりと気づくと、そこから反転が始まる。



兄弟に押し付けていた憎しみや苦しみは、自分への憎しみだったと気づく。

全ての苦しみの原因は、自分の考えだったということに気がつき始める。


罪悪感を自覚しないうちは、何に翻弄されているかわからない。

しかし一旦罪悪感というものに気がつくと、

全てがそれに翻弄されていることがわかってくる。

この世界の苦しみという苦しみはそこからきていると。


しかしその罪は、実は嘘だった。

それ自体が存在しない考えだった。




罪悪感はオバケ。


後ろから「うらめしや~~~(お前は罪深い~~~)」

ってきていると感じると、

「怖い怖い!」と逃げ惑う。


しかしその誘惑に乗らない。

ずっとその誘惑に無意識で乗ってきたのだ。


もうその苦しみを終わらせたいと真剣に思うなら、一旦落ち着こう。


おもむろにクルッと振り返り、


そして

「うん。これは柳の木」

と見抜く。


なんどもなんども「うん。これは柳の木」と見抜く。


いつのまにか罪悪感おばけはいなくなる。


あなたがそれに振り回されるという物語を必要としなくなるから。







2022年8月23日火曜日

一日展示即売会をやります

 


先日から、アメリカでやっていたペーパーバックの表紙のイラスト原画を整理している。


押入れの片隅に見ないように押し込まれてきた私の過去。


「私の過去、見る勇気ある?」

なーんてキャッチコピーのCMがあったとかなかったとか。


その膨大な量を整理していたら、捨てるには惜しい力作(自分で言うな)が次々に出てきた。


アメリカにいた1996年~2004年。

その間に、日本の出版社とアメリカの出版社とでやってきた仕事の原画。


今は仕事はデジタルで作っているが、その時代、アナログで作っていた。

色がついた紙を切って貼るという手法、つまりぜんぶ手作業だ。


NYでも色のついた紙を調達したが、

結局日本の紙の質の高さ、色の豊富さには敵わなかった。

だからわざわざ日本から船便で紙の問屋さんから送ってもらっていたのだ。

ものすごーく高かったけど(笑)。


一口で紙といっても、紙の質感やテクスチャーは色々。

それはデジタルでは決して出せない風合い、味わい。

紙の質感、色の合わせ方。

物質の暖かさは、目で味わうことができる。



あの頃は一日本人の私が、たくさんのニューヨーカーのイラストレーターと戦うプレッシャーで苦しんできたが、

今こうやって久々に見てみると、そこにはたくさんの私の愛の思いが詰まっていた。


私のラブロマンスの絵がウケたのは、

あの頃ラブロマンスといえば、

「風と共に去りぬ」的な劇画タッチの絵が主流で、

あんなウーマンリブ的なアメリカ女性なはずなのに、

以外にもその表紙はマッチョな男の人に、

か弱い女性がすがりつく的な印象の表紙の絵が多かった。


私はそこで、ポップで、アグレッシブな女性像を打ち立てた。

ガンガン男性をリードしていく女性を、意図的にアイディアを提示していったのだ。

それが時代の流れにあっていたようで、どんどん仕事の依頼が来た。


それと同時に、ミステリーの仕事も入ってきた。

ミステリーといっても、ポップで、コージーなおしゃれなミステリー。

そこでもガイコツを主人公と一緒に躍らせた。




さて、前置きが長くなりましたが、

その何点か抜粋したイラスト原画を、
一旦過去を整理するために、

思い切って格安で売ってみたいと思いました。


今回、約40点ほどのミステリー、ラブロマンス、風景の原画を

1日だけ展示即売会をしたいと思います。

印刷物があるものは、それもお渡しします。


一点20000円。(大きさは幅40センチ~縦60センチ前後)

小さいものは5000円~10000円。


場所: つくし宅

日にち:9月11日(日)

時間: 午前11時から~午後5時まで


限られた日程と場所ですが、我が家を知っている方だけにお願いします。


冷やかし、ご挨拶、なんでもオッケーです。

もちろん何も買わなくてもオッケーです。

どんなのあるの~?って、お気軽に我が家に見にきてください。

お茶ぐらいは出ます(笑)


皆様との嬉しい再会を楽しみにしています。


追伸:私のお知り合いの方で、我が家は知らないのだけれど、
見に来たいという方があれば、
メールかメッセンジャー等でお知らせください。








2022年8月21日日曜日

ウェルカムする


 

自分の中から出てくるあらゆるものを受け取る。


朝目が覚めて意識が戻ると、漠然とした不安が立ち上がってくる。

その不安をウェルカムする。

愛の視点で受け取る。


起き上がってだるい体を座椅子に横たえる。

その体の不快をウェルカムする。

じーっと愛の視点で受け取る。


ああこんなことしている場合ではない、ピーターから来た仕事に早く手をつけなきゃ。。

そうおもう焦りや重荷に感じる心をウェルカムする。


いいも悪いも、全てをウェルカムする。

今見えている風景を全てウェルカムする。


じーっと愛の視点に浸っていると、

私の心から現れているこの景色を愛おしく思い始め、

風景と思いと私は一つになる。


いつの間にか焦りや不安や不快感はどこかに消えている。





目がさめると自我も一緒に起きてくる。

忙しい自我は未来に視点を置く。

(漠然とした不安)


起き上がって体のだるさを感じる。

(過去のきつかった出来事を思い出し不安になる)


仕事のプレッシャー。

(過去の経験と未来の不安)


自我は常に時間を使って私たちに脅しをかけてくる。

ほらこんなに問題があるよ。

過去こういうことがあったから、未来のために備えておく必要があるよ、と。



自我のささやきはいつも過去と未来のお話。

それは自我は過去と未来という時間の中にしかいられないから。


単純に考えて、過去と未来は頭の中の想像にしかない。

ここには、過去も未来もない。

想像の中にあるもの、それは存在していない。

なのに私たちはその存在していないものに振り回されている。

その声に恐れおののきどうにかしようとする。


その習慣をやめていくのだ。

もうその振り回す声に耳を傾けることがキリがないことにだんだん気がつき始める。


そしてその声を拒絶しない。



その恐れを呼び起こすもの、

それに気がつき、

それを歓迎する。


その時心は今にある。


今というゆいいつ実在するものが、愛で満たされていく。




絵:NHKドラマ「素敵に女ざかり」主題歌イラスト





2022年8月19日金曜日

それと一つになる

高知の浜で小さいとき母と一緒に拾ったハマグリ

 

「その時、そこに幸せや喜びはありますか?」

そう聞かれた時、それはないと気がついた。


何を感じて何を考えてどんな心の状態にいるか、四六時中気がついている。

そんな状態にどこかでうんざりしていた矢先に聞かれた言葉。


幸せになるために、ずっと気づくという作業をしていたのに、

いつの間にかそこに喜びはなかった。


「それと一つになってください」


びっくりする。

一つになるって、そんなことできない。

だって、わざわざ離れたんだもの!


自我と同一化して巻き込まれるところから離れて、

それを見ている視点に立つ。

でもそれは、見るものと見られるものに分かれて、

私とそれは二元になっていた。


しかしその見ている対象は、私の心から出たものだった。

私はそれを突き放してみていたのだ。

そして無意識に「消えてくれ」と思っていたのだ。


ネガティブな感情、それを消したいと思うことは、

その前提にそれはあると言っている。

ある、ある、あると言っているものを消そう消そうとしても無駄だ。

あると言ってるのだから。


私はその私から出たものを愛の視点で見ていなかった。


愛の視点はそれを溶かす。心の底からそれと寄り添う。


光によって闇は消えていく。

本当に存在しないものは光によって消えていく。




全ての対象物は、私から出ている。

私の考えから現れて見えるもの。


知覚で見えているものだけではなく、

心の内側にあるものも一旦それを見るために外に出し、

そしてそれを聖霊とともに観る(愛でる)ことによって一つになる。


すべての感情を愛しさとともに見よう。