2009年6月27日土曜日
また食われちゃった
またやられちまった。なんてことだ。
さっきキジバトがへんなうごきをしていた。ジッと観察していると、羽を広げて巣の中に入ろうとしてはやめる。そして中に入らない。
そのうち巣の方から、茶色いヘビが枝を伝ってにょろ〜っとでてきた。
あーあ....お腹がしっかり膨らんでいる。
あの難攻不落の要塞は、一体どこが難攻不落なのだ?敵であるヘビにあっという間に落とされてしまったではないか。なんのためにあんなめんどくさいところに巣を作ったのだ?
なんてニンゲンがいちいち言うことではないのかもしれない。大自然の摂理において食うもの、食われるものが必ず存在するという事だ。でもこれは残酷な話ではない。「この世は残酷だー」などと嘆くための材料ではないはずだ。これをわざわざ見てしまった私に、何かを言わんとしているのだ。「あなたこそ残酷だよ」といっているのか?
キジバトは静かだった。コゲラの時とは違って、ただ黙って、事の成り行きを見守っていた。それが静観するということなのか。
昨日畑でインゲンについたカメムシを発見する。取り除いておこうかどうしようかと迷った。でもカメムシさんもインゲン豆を食べる権利がある。ニンゲン様だけが全部食うという決まり事はない。その場をおかりしているのだ。みんなでわけて食べるのがいいのかもしれない。そうおもって、私はカメムシをそのままにした。
カメムシとインゲン豆の関係には残酷さを感じないが、ヘビとキジバトの関係において残酷さを感じる自分がいる。それはおかしな感情?どちらも生きるために食うという行為をしているだけだ。
キジバトは自分の子供を食われながら、これもよし、と感じていたのだろうか。これも宇宙の摂理と。あの静かな眼差しは何を言わんとしていたのか。彼はヘビが巣にいる間、じっと枝に止まって私たちを見ていたのだ。
ぐーっと視点を上に飛ばして、宇宙から地球を見たら、そんなことも静観できる。今の私にはそんな視点が必要とされているのだろうか。
生も死も一つである。そんな現象にいちいち振り回されるな。生も幻想、死も幻想.。その両方を受け入れろと。
キジバトの目はそんなことを言っていたのかもしれない。
絵:ミステリー表紙
メンドーなことしてないか?
アメリカにいる時、へんな事が気になった。
ソファに座る。ソファに座ると、コーヒーが飲めない。そこでコーヒーテーブルなるものが必要になる。コーヒーテーブルがくると、何となく落ち着くので、足を伸ばしたくなる。ところが足は背の高いソファのせいでぶらんぶらんしている。なんかが足りない。そうだ。足置きだ。(それを何と言う名前なのかわからない)つまり、ソファでコーヒーを飲んでくつろぐには、ソファ、コーヒーテーブル、そして足置きが必要なのだ。もっというと、ニューヨークは日が当たるのを嫌うので、部屋全体が昼までも暗い。だからそこで本など読もうと思ったら、ランプシェードが必要になる。何とまあ、物いりなのだ。
これがニッポンだったら、畳の上におざぶだけ。コーヒ−は、お盆の上に載せればいいだろう。ちょっとくつろぎたかったら、窓辺の壁にでも背をもたせばいい。これで光も取れて、本まで読める。
シャンプーも似たようなものだ。頭をシャンプーすると、油分が取れて、ごわごわする。だからそこにリンスがいる。でもそれだけじゃ足りないから、時々コンディショナーもする。顔を石けんで洗うと、油が取れてカパカパになる。だからあとで化粧水や乳液をつけてさらさらにする。何とまあ、物いりなのだ。
私の勝手に石けんなし生活も3か月を過ぎた。
顔は、最初お湯で洗ったらカパカパしたので、水で洗うようにしたら、あっという間に元に戻った。今はしっとりさわやか。水以外何もつけない。シャンプーは少し手間取った。最初は頭の方が油でごわごわする。そのうちそれも取れてきたが、今度は100円ショップで買ったプラスティックのブラシに何かがつく。たぶん皮脂のはがれたものが、ブラシについているようす。つまりフケのようなもの?でも肩や服にはまったくフケは落ちていない。でもブラシについたそれをいちいち取るのが面倒だったけど、ここん所、そのフケのようなものもブラシにつかなくなってカミ全体がさらさらになった。私は2日に一回しかお湯洗いはしないが、ぜんぜんへいき。わたしゃ女のくせに化粧をしないからこんなことができるのかもしれないが。でもおっさんにはできるだろ。(つまりわしもおっさんってことか)
からだも石けんを使わなくなって、ダンナが臭くなくなったのには驚いている。「私の鼻がおかしくなったのか?」と勘ぐっていたが、例の「野人エッセイす」の野人さんのお仲間もにおわないと言っていた。
つまり、汗に含まれるタンパク質などの有機物が腐敗して体臭になるが、人のからだは微生物を飼っていて、そのままで完璧なゴミ処理機なのだそうだ。だからそれを石けんによってぜーんぶ洗いながしちゃったら、腐敗臭がするのは当たり前なのだ。口の中も同じことだ。せっかく口の中で粘液が免疫を保ってくれているのに、それを歯磨き粉で洗い流しちゃったら、そりゃ、ニンニクも臭いわなー。
第一の選択:石けん使う→からだが臭くなる、水虫が出来る→デオドラントや香水や水虫の薬や消臭剤を使う→金使う。
第二の選択:石けん使わない→におわない。
この事でも一つ思うのは、野菜のこと。
トマトの苗を7つ友達にもらったので、3つをコンポスターで作られた有機肥料と、山の腐葉土を混ぜた肥えた土の中に、そしてあとのをまったく肥料を入れない草ぼうぼうの畝に入れてみた。
前者はみるみるうちに茎がぶっとくなってくる。りっぱな葉も茂った。片や自然農の方に入れられたかわいそーな苗は、ひょろひょろと長細く育っている。このところ雨が多かった。2、3日ふりっぱなしで、久しぶりに畑を覗いてみると、りっぱな茎の苗は、葉が下の方から半分まで真っ黒になって枯れてしまっている。重そうなからだをムリヤリ持ち上げてなんだかメタボのおっさんのような姿をしている。
かたや、ひょろひょろと長かった苗も相変わらずひょろひょろだが、葉っぱはどれも黒くなっていない。下の方だけちょろっと黄色くなった葉があるくらいだ。そしてそのひょろっとした奴らには、あおいトマトの実がなりはじめていたのだ。その自然農の方はあまり日が当たらない場所にもかかわらず。
ぱっと見は、立派でぶっといトマトの木。だけどちょっとの雨ですぐやられる。でも草ぼうぼうの中のトマトは自分の主張もしないけど、確実に実を付けている。
別にプロじゃないし、急いでおっきく太らした野菜を食べなきゃいけない道理もない。
なんか....、「そのままでもええがなー」っちゅう気分になってくる。いらんことするさかいメンドーな事になってくる。
ソファ、シャンプー、肥料....。
人は結構、あれしなきゃ、これしなきゃいけないと思い込まされて、余計に自分の足を引っ張っているような気がする。
人類が今忙しいのは、実はそんなとこから来ていたりして....。
絵:本『自然は緑の薬箱』よりサイカチの実のシャンプー
2009年6月26日金曜日
不屈の魂をもつキジバト
うちの庭に一本大きな木がある。もみの木かなにかだ。こいつが難攻不落の要塞である。枝という枝が複雑に絡み合い、その中で枯れる。そこにまた新しい葉が茂り、ぐちゃぐちゃな枝振り。が、鳥たちには、そこには魅せられる何かがあるらしい。あらゆる鳥がその木を住みかにしようと試みる。だがどいつもこいつも落とせない。
そんな魅力的な木に今月もまた、一羽のキジバトがやってきた。案の定、口ばしにか細い枝をくわえている。たどたどしい足どりで木の奥に入ろうとする。が、くわえた枝がじゃまをして、その細長い入り口にからだが入らない。顔をヨコにしたりからだを細長くしてみたりする。そのうちくわえた小枝を落としてしまう。ここであきらめるかとおもいきや、その落とした枝を探しまわる。枝の中に枝が落ちたんだから、見えないに決まっている。でもあきらめない。(こいつはA型か?)もみの木の枝を降りたり上がったりしてついにさっきくわえてきた小枝を見つける。今度は枝を斜めにくわえて入っていった。お、やるじゃん、キジバト。
それから調子こいたのか、次々に枝をくわえては運んできた。川向のクリの木の細い枝を折っては持って来ている。材料調達にも便利なところを選んだものだ。それにしてもわざわざ木から枝を折って持ってくる。枝なら地面に山ほどあるではないか。拾えばもっと簡単なものを。でもこれには理由がある。まだ生きている枝はしなるのだ。ほっこりとした巣を作るには、枯れた木の枝では固くてイケナイ。
一日中それをやり続けてから、ぱたっとこなくなった。彼女でも探しにいったんだろうか。が、2、3日してまたやって来た。また枝をくわえている。おお、まだ途中であったのか。きっと初日の大奮闘で疲れて休んでいたのだろう。しかしそれも30分ほどでやめてしまう。彼女とデートの時間でもあったのだろうか。
それから、ちょこっと来てはいい加減な巣作りをしていなくなる。鳥博士に聞くと、キジバトは一度に何カ所も巣を作ると言う。今のところ、我が家の木も候補巣(それを言うなら候補地)のうちの一つなのか。
でもさ、彼女がかりにあそびに来ても「何よ、このごちゃごちゃした巣!こんなところで子育てなんか出来るわけないでしょ!」と言われるのがオチか?
ある日、忘れた頃にキジバトが飛んで来た。今度は小枝をくわえないまま、込み入った木の中に入っていく。あれ?なにしに来たんだろ?
もみの木はどこも尖った針のような葉っぱでおおわれているから、すっとはいれない。たどたどしい足どり。私の目線からキジバトのお尻とあんよが丸見え。自分のからだをねじ込むようにして入っていった。そこまで苦労して入らなくても...。と、その時、別の鳩がばーっと、外に飛び出したのだ。
え?今もう一羽いた?
何とまあ、私の知らないところで勝手にゴールインしやがっていた。
もうすでに卵を交替しながら温めているようだ。
あるとき窓辺で本を読んでいたら、例のキジバトがやってきた。中に入らず、枝に止まってじっとしている。私は目を合わさないようにして様子をうかがった。
「ほっほーっ」いっぱつハトの独特の鳴き方をした。そのままじっとうごかない。中に入る様子もない。30秒後、ばーっと別のハトが飛び立った。なんだ、そういうことか。あんまり狭い巣なもんだから、入り口で「今かえったよ〜」とか「はい、交替ね〜」と合図をしているのだろう。で、それまで卵を抱えていた別のハトが飛び立ったあと、巣に入るのだ。臨機応変じゃないか。
難攻不落の我が家のもみの木は、ついにキジバトに落とされた。かわいいキジバトたちが無事巣だってくれる事を祈る。
それにしても我が家の庭の木にはよく鳥が巣を作る。先月はコゲラ。去年はメジロが巣立った。やっぱり、草ぼうぼう木は生えっぱなしのジャングルだから、高尾の山とまちがえちまうらしい。
絵:オリジナル絵本「あめがくる」より
2009年6月22日月曜日
私は看板がきらいだー
私は看板がきらいだ。
街をとおると、通り沿いに巨大でけばけばしい看板がずら〜っとならんでいる。最近は、どこの街に行っても同じ店の名前ばかりだ。そしてなにより気に入らないのは、みんな同じ色合いばかり!赤、黄、青、緑。この4つの色ばっかりで構成されている。この色たちがいかに自然とマッチしない色かわかる〜?高尾山をバックにあの色はないだろうってなものばかりだ。特にきらいなのは、緑。看板に使われている緑色のナンと不自然な事か。自然界にあんな色はない。モスグリーンか、黄緑色をしている。日本人の色彩における感覚は世界で群を抜いているはずなのに、なんでこう通り一遍等なの?
看板は誰よりもどこよりも目立たないと行けない(そう、思い込んでいるだけだと思うが)。でも結果、みんな同じ色を使うものだから、どれがどれだかわからなくなる(ざまーみろ)。
そのケバケバしい看板たちが、いかに街の風景をまったく味わいのないものにし、人の心までもかき乱しているのかわかっているのだろうか。いっぺん日本のまちの風景をよその国から来たガイジンさんの目線になって見てほしい。どんだけ街の景観を壊しているか。
私はそういう看板の色を見つけると、ぜーんぶ森の中にある色にぬりかえてしまいたい衝動に駆られる。自然の色を見ろー。4色じゃないぞ。1000色はあるぞ!
ああいう色ばかりを日常で目にしていると、人は色に対する考えかたが、単調になるんではないだろうかと心配する。現に最近のテレビアニメを見てもそう思う。数えるくらいの色しか使われていない。だが昔のアニメは違っていた。たまたま友達のうちで、私が子供のとき見ていた「ハクション大魔王」をみたとき、「あっ!」と思った。ものすごいたくさんの色で構成されていた。しかもまったくけばけばしくない。昔はすべて手作業で色付けをしていただろう。それはさぞや大変な時間と労力を使ったに違いない。だからこそ絵に心がはいっている。たくさんの色使いにもかかわらず、全体的にバランスの取れた奥深い色合いだった。特に紫色の使い方がうまかった。きっと身の回りにそんな色がいっぱいあったのだ。その頃はまだ着物も普通に着ていたのだろう。
子供の時は、特にいろんな色を見せるべきだと私は思うな。スポンジのようにありとあらゆるものを吸収する生き物なのだ。その時期にいっぱいすばらしい色を見せるべきだと。それをいまのプラスチックで出来た4つの色だけの看板を見続けると、どういう感覚になるか。マックが食べたいよ〜とおもうのは、きっとあの赤と黄色の色のコンビネーションを見て瞬間にヨダレが出るのだ。これはもうモロゾフの犬だ(違う、パブロフの犬だ)。
昔の看板は味わいがあったなあ。骨董品やで筆屋さんの看板を見つけた時は興奮した。長さ1メートルほどある、ぶっといもったりとしたリアルな筆の形をした木の看板だった。買いたくて買いたくてしょうがなかったが、お金がなくて断念した。看板ってそんなものじゃないかな。ぱっと見ただけで何やさんかわかる。自然や街の風景にとけ込んだいつまでも飽きないもの。その看板を見ただけで、ほっこりするもの。街の風景がその看板によって美しくなっていくもの。
今のそれは遠くから見て誰でもわかるものに集約されている。それはまさに今が車社会だからだ。ばーっとスピードを出して走っている最中に「あっ、マックがある。おとーちゃん、あそこに止めて!」と。
そこには、街の息吹きや通りの味わいなど微塵も必要とされない。通りすがりのタダのメシ屋だ。
もうそれも終わろうとしているのかもしれない。ファミリーレストランは今方向を転換させられつつある。アメリカ式のパターンは、やがて自然を愛する民族の中に飲み込まれ、シンプルに足で移動する時代に入るのではないだろうか。じっくりと街を作る時代に。
絵:ニューヨークのベーカリー
2009年6月19日金曜日
人の名前のついた川
夕方おかずがないと気がつき、スーパーにコロッケを買いに行く。帰りの車の中で「またいっぱい買っちまった。あたしってバカ....」と自己嫌悪菌が発令。おっといけない。また出たゾー。
そのとき、空がぴかっと光る。「ひえっ!」一瞬車の中から歩道を歩くおじさんを見た。おじさんも肩をすくめて空を見た。
人はネガティブな事に敏感に反応する。
カミナリ→感電死。お金使う→貧乏→路頭に迷う→餓死。
そう。人は死に直結するものを無意識に感じ取る。それはこの世で一番怖いのは死なのだと、心の奥底の深ーい深ーいところで、泥のように沈み混んでまったく浮上しないアイディアなのだ。アンタッチャブル。誰にもわからないその正体だからこそ、今の私らを縛り付けている。すべての事がそこに一極集中する。
もっかの我が家の問題は経済。ニューヨークでバンバン稼いでいる時はお金の心配などしなかった。もっぱらグリーンカードの取得、いつふりかかってくるかわからない犯罪、近所の騒音(爆音)、そして心の平安だった。人って、足りているものには目もくれない。今はグリーンカードの取得のための苦しみや、犯罪の心配、騒音の問題などナンにもない。そんな苦しみなどなかったかのように「そんなの当たり前」とふてぶてしい。
ちょっとあーた、ニューヨーク時代どんだけ今の環境をのどから手が出るほど求めたと思ってるの。それを今はころっと忘れて、経済的な心配ばかりしている。人ってどうもどこか満ち足りると、何か他の、ネガティブなものを探すようになるのではないか?人生のがらくた箱の中から、何か足りないモノを引っぱりだしてきては「今これがたいへんなのよ〜」とバタバタする。
たしかに「私ってしあわせ〜」と始終思っていたら、何かどこかピントがボケるような、漠然とした気持ちになる。純文学でもそうじゃないか。主人公が幸せいっぱいだったら、物語にはならない。「ああ、幸せ。おしまい」となって、あっという間に物語が終わってしまう。だがそこに悪いやつが登場したり、突然の不幸が主人公を襲う事によって「じゃじゃじゃじゃ〜ン」と物語が始まるではないか。
つまりだ。これは何かしらの問題をつかむ事によって、人は生きる実感を得ているんではないだろうか。(なんつーやっかいな生き物なんや)無意識に純文学の中の主人公や、火曜サスペンスの被害者になろうとするのかもしれない。
「ああっ、私ってなんて不幸なの」「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ....」と。
テレビや小説を読むうちに、その主人公と自分を重ねあわせてしまうことはないか?そしてその生き方がカッコ良く見えて、いつのまにかそれをマネてしまいたくなる衝動はないか?かくして現実の中でも自分をメロドラマの中の主人公にして、ドロドロの人間模様の中でもがく。これを『人生メロドラマ主人公説』と呼ぶ。
今、私もネガティブ要素をみつけている。「ああ、お兄さん、マッチ買ってください....」と、マッチ売りの少女になりきっている(マッチ売りのおばさんだな)。
この世は劇場なのだと『ヴェーダ』は言う。
人は一人一人役者で『ザ・現実』と言う名のドラマの中で、まさにリアルタイムで役を演じている。殺人犯になるものもいれば、その被害者になるものもいる。社長と言う役もあれば、平社員という役柄もある。家にかえれば粗大ゴミと言われるお父さんになり、家で暴れ回る子供になる。だがその役を演じているという事は、演じさせている誰かがいるという事だ。それはとどのつまり、その本人ではないのだろうか。そしてそのドラマを楽しんでみているのは、実は私たち自身なのではないだろうか。(それってマゾ?)
なら私は、悲劇の主人公ではなく、喜劇の主人公になりたい。あっけらかんとこの世を楽しくドリフターズや欽ちゃんのドタバタ劇のように、何やっても明るく笑えるような主人公になりたい。ドリフターズがマッチ売りの少女をやったら、さぞかしバカバカしい話になるだろう。その役柄になるもならないも本人次第なのだ。暗い世の中を暗い暗いと嘆いてみたって、ちっとも明るくはならないのだ。政治家やこの世の仕組みを怒ったって、自分が明るくはならんのだ。
たとえば社会を嘆くと「それって社会派ね」なんてちょっと頭が良さそうにみえる。生きている実感も得られるというものだ。だけどそんなもの大きすぎて個人で手におえるものではなくて、一朝一夕に解決できる問題でもない。そんな大きな問題をかかえて悩んでいるうちに、心はもっと暗くなる。
あれが足りない、これがダメだという考えは、こうあってほしいという願望からくる。と言うことは、その時それが手に入っていないという事だ。手に入っていないという事は、すなわち不幸であるという意識になる。だからなおさらの事「こうあってくれなければ、私は不幸なのだ!それさえあればしあわせなのだ!」と、いつのまにか他の満ち足りている事も忘れて、それに執着する。じつは執着こそが生きている実感が得られるともいえるのだ。でもあえてネガティブなものに執着するという事は、常に自分に不幸がつきまとう事になる。いつも自分は不幸なところにいるという事を「実感」する事になる。その「実感」は本当に必要なものなのだろうか。
川っぺりの草にむんずとしがみついて、川の流れに逆らい続けていてしあわせなのだろうか。それをぱっと手放せば、川の流れに身を任せる事が出来る。そしてそれが本当のその人の向かって行くところだとしたなら、人間はなんて回り道をしているのだろう。
その川はきっとその人の名前がついた川なのだ。私も「つくし川」の流れに逆らわず、両手をぱっと手放して、流れるままに生きてみたら「実感」というものは得られないかもしれない。ましてやどこに行くか予想もつかない。だけど最終的に今回生まれてきた意味を知る終着点にたどり着けるような気がする。
川っぷちに生えているネガティブという名の草を手放してみるか〜。
絵:「動物診断」ライオン
2009年6月15日月曜日
同じ価値観
花が咲きはじめた枝豆のヨコに生えている草1本をジトーッと眺める。
「この草は、今刈るべきか。はたまた刈らないべきか。しかしこのところの雨で枝豆の根もとがなんだか湿っぽい。ここらで風を当ててやらんといかん。しかしここでこの草を今刈ったら、枝豆が出来る頃にカメムシの集団におそわれるのか.....?う〜ん。ど、どうしたらいいんじゃあ〜〜〜っ」
と、自問自答する。うんこ座りして枝豆の下を覗き込んでいる姿は、はたから見たら、さぞかしブキミであろう。
私が実験を開始している(そんなおおげさな)農法は自然農というものらしい。いや農法などと、えらそーな言い方をしてはイケナイ。なんというのだ?草生えっぱ栽培?草ぼうぼう畑?野草化野菜実験場?それとも単なるなまくら畑(うん。これがいいかも)。
近所の若い農家のあんちゃんのあいさつは「おう、サクッてるかい?(今日も元気に畑の畝を耕しているかい?の意)」「おう、サクッてるぜ」が正しいあいさつだ。
一方わしら、なまくら畑のあいさつは「おう、ぼうぼうかい?「おうよ。今日もぼうぼうだぜ(草が)」となる。
この二種類の畑の間には、底なしのような深い谷がある。農家のあんちゃんの畑は草一本はえていない美しい畝が何本も南アルプスの山脈のように美しく続いている。まさに芸術的だ。その彼にわしらの畑を見せる事は絶対に、ゼーッタイに出来ない。きっと卒倒する。草が有る無しの価値観の違いは、月とスッポンくらい違うのだ。この考えの差は何を足しても埋まらない底知れぬ断崖絶壁の壁(壁って底知れなかったっけ?)があるのだ。
でもこの世はおもしろいもんで、わしらと同じ畑を目指す人たちがちらほらいる。最近あるブログを見つけてしまった。しかも同じ職業イラストレーターさん。林業も手がけた事があるらしい。ちょーくわしい。私が今までにことあるごとに感じ、ダンナと合図ちをうってきた事が、そのブログにはちゃんと書いてある。うれしくなって毎日覗き見している。
その人が今日50歳になりましたと書いてあった日付が、なんと私と同じ誕生日だったのだ。何とした奇遇よ。
自分と同じ誕生日の人なんてそういないもんだが、もう一人私と同じ誕生日の女の子がいる。しかも干支までいっしょ。その子はなかなかいい感性をしている。彼女の事も思い出して、ほっこりした気分になった。
同じ感性、同じ誕生日、そして同じ価値観を所有することのあったかさ。高尾山に向かって、うるうるしてしまった。
絵:オリジナル「ボージョレーヌーボー」ボトルラベル
2009年6月12日金曜日
すべては思い込み?
ある人が、催眠術にかけられた。
自分の娘が部屋からいなくなった、という設定だ。案の定、かけられた男は、部屋の中にいる自分の娘に気がつかない。目の前で娘がへらへら笑っていても気がつかない。そこまではいつものパターン。「あほやなあ。なんで見えないんや?」で笑って終わり。ところが実験はその先にあった。娘は時計の前に立った。術師が「今何時?」と聞いてみる。彼の目の前には娘が立っていて、時計の文字盤は見えない。ところが彼は時計がさす時間を正確に言い当てたのだ。つまり男の目の前には本当に娘はいなかった。だから、そのまま時計が見れたというわけだ。
いったい人の眼とはどういうものなのか。また物質とはいかなるものなのか。人は自分が感知したものしか見えないのか。又は感知しようとしたものしか見えないのか。だとしたら、私たちが今、催眠術にかかっていないと誰が言える?「いち、にい、さん!はいっ、おわり!」って、ポンッて手を叩かれた瞬間に、今まで見ていた世界がまるで違っていたら?
私たちは、物質として存在するものはすべて見ていると思っている。でも催眠術にかかっただけで、目のまえにいる物質である娘が見えないということが起こる。じゃあ、知らない間に催眠術にかけられていて、「あなたたちにはこれは見えませんよ」といわれていたらどうなる?そしてそれがとても大事なものを見ないようにさせられている可能性だってあるのだ。または、このように解釈しなさいよと教え込まれているものもあるかもしれない。
物質をどんどん細かく見て行ったら、原子にたどり着くらしい。人のからだを構成しているのも原子。原子は原子核と電子で成り立っている。原子核の周りを電子が猛スピードで回っている。その大きさの関係は原子核が野球のボールだとすると、その周りを回っている電子の周回軌道の大きさは、野球場ほどあるらしい(!)。原子における実体と空間の比率は、1対10万なんだと。つまりだ。肉体を構成している原子の99.9999%は、空間というわけだ。量子論でいくと、100%が空間なんだそうな。ということは、わしらが「物質」と感じているものは、単なる空間ということになるのさ〜。じゃ、なんで手で触ったり見えたりするんじゃ?電子はものすごい早さで回転しているわけだ。ほら扇風機が回っているときは、あたかもそこに丸いものがあるように見える。触ったら痛いし。でもひとたび止まると、単なる3枚の羽だけ。そのまわりは空間しかない。それと同じような原理らしい。
だからもともと物質とは見えない、または存在しないものかもしれないのだ。それをわしらが勝手に、ここに娘がいるぜと思い込んだり、ここには娘がいないぜと思い込んだりするってことか。
わしも小さい時、「地面が固いと思っているから立ってられるんだな。これが柔らかいなんて思っちゃったら、即、地面にのめり込んでしまうから、考えないようにしよう。」などと自分の思いをコントロールしたものだ。思えばあの時すでにその原理は知っていたとみえる。子供ってすごいなあ。
大人になると「そんなことない」「あり得ない」とふと浮かぶビックリするような考えをことごとく否定する癖をつけられてしまったが、今ごろになって科学があとを追っかけててくる。人間はすでに何かを知っているのだ。この催眠術の実験もそれをまさに立証してくれるような話だった。その男が手を伸ばしたら、娘のからだを通り抜けて時計を触っていたかもしれない。
すべては「思い込み」なのかもしれない。物質があることも、この世がある事も。
絵:オリジナル
2009年6月9日火曜日
野菜って何だ?
小松菜、春菊、サンチュ、ルッコラ。
我が家のテーブルに並ぶのはいつもこの食材。今年、初心者はわけもわからず、そこらに種をばらまいた。小松菜はあれよあれよという間に大きくなって、葉っぱが私の顔の大きさ。背丈は軽く50センチを超える。しかもちっともとうが立たない。小松菜の親分さん、もっと大きくなる気でいるらしい。春菊はもうすぐ花が咲く。ルッコラは可憐な花を咲かせている。サンチュはいっくらもいでもあとからあとからりっぱな葉っぱがぐんぐんでてくる。サンチューベリマッチ!ツーマッチ!(もうたくさんですという意味)
しかーし!
不思議なことに、気持ちは「もういっぱいです」なのに、身体は全然オッケーなのだ。たとえばスーパーでこの食材だけを毎日買って食べていたら、何かが足りなくなる気がするだろう。緑黄色野菜、ビタミンAやらDやらと、何かと気にして、あれが足りないこれが足りないとたくさんの種類の野菜を買い求めているはずだ。ところがウチの畑の野菜は、毎日これだけしか食べていなくても、緑黄色野菜?ビタミン?ん、この4つの野菜でオッケー。ってなかんじなのだ。なんつーか、いろいろ野菜を食べなくてもこの4つ食ってりゃ心も身体も満足してしまっているのに気がついた。毎日30種類は食べないといけないんじゃなかったっけ?
この4種類の野菜は「土」しか使っていない。雨水と太陽と土だけ。最初に収穫した時、私はこれを「自分が作った」とはとても思えなかった。完全に受け身である。種さんが勝手に、土さんと太陽さんと雨水さんとで会議を開いて育ってくれたものだ。
私はとてつもない大事なものを食させてもらっているのではないだろうか。そうでないとどうしてこんなに充足するのだろう。これがホントの野菜の力?いやたんにはじめての野菜作りの自己満足?
私はビタミンAでもBでもDでもZ(?)でもない、人間が分解して分析して見つけた栄養素だけではない、もっと別のものを身体に入れているのではないだろうか。それは決してスーパーで買った栄養たっぷりのきれいにそろった野菜からでは取れない何かを。
ここは5、6年放置されて自然に帰った土。かれらはまさに自然の中に生える草と同じ条件下で育った。何も足さない何も引かない。かれらは地球上の人間以外の生き物たちの営みの中にちょっとおじゃまさせてもらって育った、野菜という名の草なのかもしれない。それがたとえF1の種であろうと、この地球上で生まれ育ったものなのだ。草たちと同じ条件下で育てば、同じような力はきっと浮き上がってくるはずだ。その力をいただけば、あれを食べなければいけない、これを食べなければ不足するなどと、日本中を、いや世界中を走り回らなくてもいいんじゃないのか。ただそこにあるものだけで、十分に満足するんじゃないのか?そしてそれが本当の野菜の力なのじゃないのか?
現代人がいつもなにかの不足を感じているのは、自分の身の回りにあるものが、どこか本物でないと無意識に知っているからだったりして。
絵:「すずしろ22」の野菜
2009年6月8日月曜日
チョウがいない?
ビッビーッ!
家のそばでバイクのクラクションが鳴る。窓からのぞくと最近知り合ったおじさんが、50ccのバイクにまたがってこう言った。
「いねえよ。全然いねえんだよ!チョウが!」
木下沢でチョウの写真を撮りだして3年、そして鳥類を撮り続けて38年になる野鳥写真家が嘆いた。
「最近土日になるとチョウを捕まえにくるやつらが、束になってやってくるんだ。それでへっちまったにちげえねえ...」
お酒で喉をつぶしたしゃがれ声のおじさんの心は泣いていた。
そういえば、うちの庭にもチョウが少ない。人が採ったぐらいでそんなに減るんだろうか。ミツバチも減っているようだし、ウチに毎年集団で巣を作るアシナガバチも、今年はたった一匹で奮闘している。他の虫も心なしか少ない。何かが起こっているのだろうか...。
そのあと、ひさしぶりに高尾でボランティアをしている虫博士にばったりであう。早速、チョウに異変がないか聞いてみる。
「ねえねえ。今年高尾のチョウって減ってる?」
「いやー。いまの所そんな感じはしないよ。季節はこれからだからねえ。」と、いたってのんきなかんじ。
一体どっちが正しいのだ?
その虫博士に、畑で見つけた虫を見せた。ぐうぜん私の服にくっついていた、最近枝豆の葉っぱにうじゃうじゃいる恐竜みたいな形をした虫だ。
「あ、これ、コフキゾウムシ。くずの葉っぱを食べる虫だよ。交尾する格好がかわいいんだよね〜」
おっとびっくり。こいつをかわいいとは。はじめて枝豆に群集していたこのちっこい恐竜を発見した時、私はのけぞりそうになったものだ。
「な、なんじゃあこりゃあ〜!」と。
それからバケツに水をはり、若葉の間にもぐりこんだこの原始的な生き物を一匹一匹取り除いて行った。基本的にウチの畑にいる虫は殺さないことにしているので、畑の外に逃がした。コフキゾウムシをあとで調べてみると、やはり豆科の植物が大好物らしい。土中に住み着いているようだ。考えてみりゃ、つい去年までウチの畑にはくずが生い茂っていたのだ。それを開墾して私らが畑にしちゃったもんだから、彼らの食物であるくずがなければ、同じ豆科の枝豆につくってもんよ。先客にも敬意を払わないといけないなあ。共存するかあ。(できるのか?)
人がいればそれだけ視点が増える。それぞれの位置によって同じものが違って見える。敵に見えたり、かわいく見えたり。減っているぜ!と見えたり、ぜーんぜん減ってないよと見えたり。
この世は全部主観で見ているのかもしれんなあ。逆に言えば、客観視なんてありえないのかもしれん。そこまで引けて見えているのは、地球からずーっとはなれた宇宙人かもしれん。え?宇宙人はチョウに興味はないってか?
で、チョウは減ったのか、減っていないのか?
誰に聞きゃいいんだー。
絵:coopけんぽ表紙「ちょうちょ」
2009年6月4日木曜日
親の呪縛
子供が最初に自分というものを意識させられるのは親からだ。その親から「あんたはホントにバカなんだから」といわれると、「ああ、わたしはバカなんだ」と思い込む。「おまえはなにをやっても三日坊主だ」といわれると「ああ、おれは三日坊主なのだ」と思い込む。「あんたは身体がヨワイんだから」と言われると、「ああ、私は身体がヨワイんだ」と思い込む。子供はスポンジのように無条件でいろんなものを吸い込む。
人って実はこうやって私はこういう人間なのだとレッテルを貼ったり、位置づけたり、特徴なのだと信じ込んだりするんじゃなかろうか。
それにふと気がついたのは、うちのダンナやその兄妹が、身体が丈夫な事からだ。
「ひょっとしてあなた、小さい時親に身体がヨワイって言われた?」と聞くと。「え?ぜんぜん言われなかった」という。「薄着していると風邪を引くからあったかくしなさいとか、バイ菌があるから手を洗いなさいとか言われなかった?」「ぜーんぜん」とそっけない。
そーいえば、寒がりのくせに、へんな所で薄着のままだったり、手なんかろくに洗いもしない。菌に関してはまったく無頓着。でも病気一つしない。頭使いすぎてへろへろになってよく寝るが。
逆に私は「あんたは身体がヨワイんだから」とか「バイ菌が移るでしょ!早く手を洗いなさい!早く!早く!」と強迫観念のように言われた。で、私は身体がヨワイ(と、思い込んでいる?)。
じつは母はもっと言われ続けた。母がまだ赤ちゃんの頃、道でお坊さんが母を見て「この子は3歳まで持たない」と言ったという。それからおばあちゃんは、母にずっとお灸をすえ続けた。ことあるごとに、あんたは身体がヨワイんだから、あんたは身体がヨワイんだからと言われ続ける。母はずっと病気がちだった。今73歳の母は、医者が太鼓判を押すほどに健康そのものだ。なのに私は身体がヨワイ、悪い、不健康だと今だに思い込んでいる。長年民間療法を学び、医者も驚く実際の年齢よりはるかに若い健康的な数値をはじき出す。なのに、ことあるごとに身体が重いしんどいとなげく。くじけると病院に出かけるが「どこも悪くないよ」と言われてトボトボ帰ってくる。
もうこうなってくると、単なる妄想の次元だ。身体は健康なのに、自分の母親から言われた『身体がヨワイ』の呪縛からまだ逃れられないのだ。73年間も!
母はその呪縛を私にも植え付けちまった。ちょっと具合が悪いことを言うと、早う治しなさい、早う!今電話を切ったらすぐショウガ汁を飲みなさい!けなげな私は母の言いつけを守って、一秒でも早くショウガ汁を飲む。
それもだんだんアホらしくなってきた。これって、母の呪縛じゃねえか。こちとら48年間も生きてきたんだ、それなりの自分の考えってえもんがあるんだ。もう5歳やそこらのガキじゃねえ!
と、まあダンナはそんなこと言われずに育ったから健康そのもの。私はその呪縛に引っかかった。でもそんなものかもしれない。親だってよかれと思って言ったのだ。
心の中にすくう強迫観念は、親の影響が相当ありそうだ。
私の自己嫌悪菌の原因は、親にちゃんとしろと言われた事と、もう一つ思い当たるふしがある。
「調子に乗るな」だ。
どうも私は相当なお調子者で、なんかあるたんびに、そこらで踊っていた。へらへらとチャカポコと、その場でたこのように身体をくねらせ踊っていたのだ。それは嬉しさの表現でもあったのだろうし、その場をとりつくろうワザ(?)でもあったのかもしれない。とにかく親はその行為を受け入れられなかったらしい。「ふざけるな」「やめなさい」そして「調子に乗るな」と言われた。で、スポンジの私は、嬉しい行為を表すのはイケナイ事なのだと思い込んだ。そうやってふざけそーになる自分を抑制し(ホントか?)生きること48年(しつこい)。
そろそろそんな親の呪縛から解放されようと思う。
調子こいてもいいじゃないか。踊っちゃってもいいじゃあないか。生きることは喜びなのだ。嬉しさを表現して何が悪い。
呪縛にかかるのは、親が悪いんじゃない。そういうもんだと思い込んだだけだ。でもそれはある程度まで生きて行くためには必要な法則だったに違いない(電車の中でとつぜん踊っちゃったりしたらあやしいもんね)。でも死ぬまで持って行く必要もない。母を見ていると、祖母の呪縛は今は窮屈にしか見えない。
解放するのは自分でしか出来ない。
わたしゃ、親がああしろと言った事をぜーんぶひっくりかえしてしまおう。これは第何回めの反抗期だ?たぶんこれが最初で最後の巨大な反抗期になるだろう。それは自分というものはこういう人間なのだと思い込んでしまった私から本当の「私」への出発なのだ。
絵:雑誌「HOUSE BEAUTIFUL」スポットイラストレーション『芝生のベッド』
2009年6月2日火曜日
野人さんにバレちゃった
先日、私がいつも覗き見しているへんなブログ「野人エッセイす」の野人さんに、私のブログがバレてしまった。無断で覗き見をし「ふんふんなるほど、そういう事か!」といちいち納得し「おっしゃ、ほんならやってみるかい」と、私の人生の虎の巻にさせてもらっておりました。すんません。ホントはムーさんといわれる。でも私にとってみれば、野人そのものなので、野人さんと言わせてもらっております。彼の発想はすごい。人間の可能性をドバ!と開かせてくださる。何と言うか、いちいちのアイディアが、人を元気にしてしまうのだ。その根底に流れているのは、ニンゲン裸一貫で生きて行ける!この身体とこの意識はすべて完璧なのだ!という大胆な発想。ちまたに広がっているこむずかしい学問は、ニンゲンがあさはかに見えている世界だけを見てブンセキしているのであって、その後ろにあるすごい叡智や調和を忘れているじゃないかと。もっと観察しろと言っておられる。その彼の経歴はすごい。とてつもない経験と学問の上に成り立っておられるから、説得力が違う。その考えは、私の今まで「どっかへんだな...」とおもっていた疑問をことごとく解放させて行ってくれたのだ。
人間なんつーものはねえ、老いておっちんじゃうだけがのうじゃあないのよ。(人のふんどしを締めて、とたんにふてぶてしくなるやつ)
近頃は、人間にはとてつもない限界がある、ものすごいちっこい存在なんだから、やさしーくやさしーく、だいじーにだいじーに扱いましょうとか、菌からも遮断、ウイルスからも防御、ああ、それからこれとこれを飲まないとたいへんなことになりますとか、腫れ物に触るような扱いをする傾向がある。
そんな発想はくそくらえだ。ニンゲンそんなちっこい存在じゃあないのだ。身長2メートルにも見たない、このちっこい生き物は、物質的な大きさだけじゃなく、宇宙のすべてがおさまっているのだ。私は小さい時、それを自分で感じた。自分の中に宇宙があるのを見た。ちなみに地球は左の人差し指の中にあった。(えらいはしっこじゃのー)
そんな私がこの世の常識にまみれにまみれて48年間。それでもあのときの感動は忘れられなくて、なんかへんだ、なんかへんだと思い続けて何かを探していた。そして野人さんに出会った。うれしかったなあ。やっぱそーだよ!これだよ!と。
人間の身体はそれだけで完璧なのだ。何も足さなくても何も引かなくてもいい。そして人間がいただく自然の一部もそうだ。何も足さなくても何も引かなくてもいいのだ。ただそこにあるものがすでに完璧なのだ。それを一番知っていたのは、何を隠そう、日本人じゃないか。世界中のどこよりもだれよりも自然を観察し、めでて、歌にし、口にし、味わって、そして芸術にしてきたじゃないか。
野人さん、ありがとうございます。
これからも日本を元気にしてね。
絵:へるすあっぷ21エッセイ「森林セラピー」
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