2014年5月31日土曜日

善悪の木の実はゲームへの入場券?



エデンの園からニンゲンは追放されて、エデンの外にわしらはいるとおもってるけど、ほんとはそのエデンはもんのすごーくでかいとしたら?

ほら仏教だって、どこまで行ってもお釈迦様の手の中にあるってなこといわれてんじゃん。
これをキリスト教的いえば、どこまで行ってもエデンの園の中にいて、わしらは「外に追放された」っておもってるけど、ほんとは箱庭みたいなちっこい世界の中で右往左往してるだけじゃないかって。

善悪の木の実をもったヘビが、エデンの園の出口(ホントは箱庭の入り口)に立っていて、
「は~い、善悪を知る木の実いかがですか~?食べればあなたは即、善悪の世界に入れますよ~」
と、さそっている。
いわばヘビは善悪のゲームセンターの入り口でチケット売ってるおじさんみたいなもの。チケットは紙じゃなくて、木の実を食べること。

するとあなたは即善悪とゆーものを知る。そして、アダムのちんちんをみて、
「あら、そんなもの出してちゃいけないでしょ!」と判断し、
「おいっ!おまえこそちち出してちゃみっともないだろ!」
と、なる。
あっとゆーまに、善悪を知る(ほんとは見つける?)。

そこから善悪ゲームの始まりだ。
私たちは、善悪、損得、優劣、高い低い、太い細い、大きい小さい。。。。と二元論の中に突入。ありとあらゆるものをこの物差しで測るようになり、他人と自分を比べておおさわぎする。
男女、これもひょっとしたら、もとはアダムとイブは一人だったのかもしれない。木の実を食べたとたん、男女に分かれたのかもしれない。

ゲームのあがりは、
「あれ?これホントはゲームだった?」
と気づくことだったりして。
「あれえ~、気がついちゃった?」
ってヘビがいう。
そこで、
「おっめでとうございますうううう~~~!!!ぱんぱかぱあ~ん!」
とラッパがなる。

でもほんとは、物質として箱庭があるわけじゃなくて、一人一人が作った善悪の価値観の中で、自分の頭の中が縛られているだけなんじゃないか?私たちは単に自分が作った観念の牢獄の中で自分自身に縛りをつけているだけなんじゃないだろうか。
その善悪の色メガネをちょっとはずせば、いくらでも目の前にエデンの園は広がっている。いつでもここにあって、いつでもそれに気がつくことを待っている。

善悪を知ることによって、ニンゲンは色んなものを作った。それもまた豊かな試みなのだ。神様はじつにおもしろいものを思いついたものだ。

2014年5月27日火曜日

親のフリ見てわがフリ直す。



先日、親の様子を見に高知に帰ってきた。
この年になると、いろいろある。

帰るときゃ、単に「うまいもん食いに帰ってきましたあ~!」的に遊びに帰るっちゅーよりは、なんかの「答え」を出すために帰る、みたいな一大決心をしてからいくよーなキンチョー感がある。
親元を離れて暮らすって、それなりに色々複雑なのさ。

しかしあるとき、「答えって出さんといかんもんかいの?」
とゆーアイディアが浮かんだとき、答えは自ら絞り出すもんじゃなくて、必要な時に、勝手に降ってくるもんじゃないかなとおもったわけさ。絞り出すような考えは混乱を産むだけだもん。
するとなんだか急に気持ちが楽になって、
「あ、かえってこ」とおもった。

さて帰ってみると、意外なことに、親の状態の発見ではなく、自分の発見になってしまった。

親の気に入らないところいろいろ。
あ~あそこがだめだな。ここもだめだな。あ~あ、みてらんねえや。。。。
え?ちょっとまてよ。。
そこ、あたしにないかえ?
え?いや、そ、そんな。。。。
じゃあ、こっ、ここは。。。?
げ。似てる。。。!
そっ、そーいや、これも。。。いや、あっちも。。。。
およよおおおお~~~~~っ、これっ自分やんけ!!!

と、なってしまったわけであーる。

一人っ子はどーも両親の性格両方を、まともに受け取るよーなきがする。まったく正反対の両親の元で産まれると、相反する性格をそのまんま両方引き継ぐような気がするのだ。まわりの一人っ子の友だち見ててもけっこう複雑だもの。

それがまさにやまんば。ウチの親はまったく違う性格をしている。で、どっちもわたしの中にあったのだ。
神経質でだらしなく、努力家で怠慢。明るくて暗い。人嫌いで人好き。一歩一歩地道にいくかと思えば、一足飛びに行きたがる。
これだけ聞いたら多重人格者や。

要注意人物は母。
やまんばの影の部分を思いっきり支えてくれている(笑)。
こういう思考のパターンでいくとこうなるよ、と自ら演じてくれている。わたしに体当たりでメッセージを送ってくれている、ものすごい存在なのだ。

人って、なかなか自分自身が怖くてみれない。
だけどすぐ近くに目に見えて教えてくれる存在がいる。親の気に入らないところがあったら、きっとそれはあなたにもある。でも親の好きなところ、それもあなたの中にある。

よく考えたら、その親にあなたは育てられたのだ。その空気感の中で、その親のテレパシーで、その親の考えの中にいたのだ。そのまんま受け継ぐにきまってる!

と、すると
わたしは親のコピーだああああ!

そー思うと、不思議なことに親のやな部分が気にならなくなっている。

なんだかおもしろくなってきたぞ。

2014年5月25日日曜日

「答え」なんてないのかもしれない



善悪。
これが人々の心を苦しめる。

成績が悪い→いけないこと。
学校に行かない→いけないこと。

いけないとおもえばおもうほど、どつぼにはまる。
しかしクラスで成績順位とゆーものがあるかぎり、必ず1番がいて、必ず誰かがビリッケツになる。すると2番は1番をうらやみ、ビリッケツから2番目は、優越感にひたる。

やまんばは高校でビリッケツに近かったが、ビリッケツになったことがないとゆーことは、誰かがビリッケツだったのだ。だが、誰一人欠けることなくみんな卒業した。
とゆーことは、ビリッケツのだれかさんも、堂々と卒業したのだ。

やまんばはすごいとおもう。ビリの人はビリを演じてくれたのだ。ビリのままでも好いと、堂々としていたのだ。ほんとは苦しかったのかもしれない。だけどみんな来たのだ。その思いはいかばかりだったろう。優越をつねに意識させるこの社会で、自分がビリだと知りながら学校に来る強さ。
きっと成績うんぬんだけじゃない学校生活の魅力をその人は知っていたのだ。


善悪。優劣。
世の中の秩序を守るものである。しかし同時に残酷でもある。
ほんの些細なことでまで、人々は自分の存在をかけてまでしていがみ合う。

インターネットを見たりすると、ありとあらゆるところに、
「いいか、わるいか」
という判断を迫って来る広告が散りばめられている。
人々はパブロフの犬のように
「ああ、これはいいにきまっている」
「ああ、それはわるいに決まっている」
と無意識に誘導される。

一度「これがいい」「これがわるい」とインプットされた判断基準は、自分があえて意識しない限り、そのままその基準を遂行する。
そしてそれがいつのまにかその人の心のしばりになっていく。
これが今私たちの心の中で起こっていることだ。

やまんばはなにかあったとき
「あ、これいけない!」
と思った瞬間、その先に進むいつものパターンの心の動きを一瞬止めて、
「ほんとうにこれはいけないことだろうか。。。?」
と自分に問うてみることにしている。
そのほんの少しの間に
「そうでもない。。。か」
と、思えるようになる自分を知った。

正しいまちがっている、という答えを求めたがっていた自分に気がつく。
本当は「答え」なんてどこにもないのかもしれないのに。。。

2014年5月21日水曜日

あなたはどの「思い込み」をえらぶ?



やまんばは思い込みで生きております。

石けんなしでも身体はきれい。
肥料なくても子は育つ。
ちがうちがう、野菜は育つ。

根拠?
そー信じてるから、そのよーに見えるだけです。

一方、石けんがないときれいにならない。
肥料がないと野菜は育たない。

根拠。
そー信じてるから、そのよーに見えるだけ。。。だったら?


最近は、この世の常識は仮説だらけとか、統計の9割はウソだったり。。とかゆー情報があるらしい。
やまんばはそんな専門的なことはわからないけど、いわゆるジョーシキとか科学とかアカデミックな感じで言われていることは、なんだか堅苦しく、自分がちぢこまっていくよーなかんじがするので、どーしても好きになれない。

で、その反対に、これ、ホントに必要?とか、これ、ほんとにそうしないといけないの?と思うことは、進んでやめてみるんだな。
そーすると、なんだかとってもカイホーされた気分になる。

すると世の中で必要!といわれていることは、へーきでいらなかったり、「しないといけない!」ことをしなくても、ふつーにことが流れていったりするのだ。

なんで?

やっぱ「思い込み」じゃね?

あなたはどの「思い込み」をえらぶ?




絵:「カッパママ」裏高尾の不思議な仲間たちより。

裏高尾には不思議な生き物たちが住んでいる。
彼らはニンゲンの近くに寄ってきて、ニンゲンのフリして生きている。だけどどっかがちょっとへん。なんか気になるな〜っと道をすれ違う人物をそっと観察すると、すこ〜しおかしな部分を発見するのだ。
かれらは「これがニンゲンだ!」
とゆー思い込みでそのフリをしているに違いない。だけどどっかがちぐはぐ。
あんがいニンゲンも外から見ると、ちぐはぐなんかもね。

2014年5月17日土曜日

きらえばきらうほどついてくる



海の中でうんこをする。
水をかいて汚物からはなれよーとする。するとなぜか知らんが、うんこは自分を追っかけてくる。あせってさらに水をかいて逃げる。するとうんこはず~~~~~~っとついてくる。
(とゆー、誰かの話だ)


これは深い真理だ(なんつーたとえや)。
イヤだとおもっているもんは、なぜかイヤだと思えば思うほど寄ってくるのである。
うんこは自分が出したものだ。つい10秒前まで自分のからだの中にあったものが、からだの外に出ただけだ。なのに出たとたんそれをきらう。

このきらうという感情が、ことの混乱を生んでいる。
うんこ→きたない。
きたない→きらうべし。
きらい→逃げるべし。
逃げる→追いかけてくる。
もっと逃げる→ず~~~とついてくる。

これ、日常でいつもやっている。
だれかをきらう。きらえばきらうほど、そいつはいつもそばにいる。あの手この手を使って逃げる。やっとその誰かさんからはなれる。すると、また似たよーな性格の第二のだれかさんに出会う。あなたはまたきらう。するときらえばきらうほど、その人はいつまで~もそばにいる。

元々うんこはあなたの中にあった。それが表に出ただけだ。だれかをきらうというアイディアは、あなたの中にあった。それが表に出ただけだ。

だれかをきらうというには理由がある。それはあなたの中に、それは人としていけないと思うことから来る。つまりだれかに「こんなことをするのはいけないことだ」と教わったからだ。
そしてうんこはきたないものだと教わったからだ。

もし、うんこはきたないもの、と教わらなかったらどうなるのか。
「あ~ら、たみこちゃん、うんこでたわねえ~」
「うふふ」
「よかったわね」
「うふふ」
彼女の心のアイディアに、うんこはきたないもの、とインプットされただろうか。うんこについて拒絶は起っただろうか。

ある日たみこちゃんは海の中でうんこをする。
ぷかりと浮いたうんこをじっとながめる。うんこは静かに海流に乗って彼女からはなれていく。おわり。

私たちは、うんこはきたないものと教わっている。するとうんこやきらいなものはずっとつきまとうのだろうか。いや、たみこちゃんと同じことをすればいい。ただそこにじっとしているだけでことは運ばれていく。

私たちは、イヤなものを排除しようとする。
こまったとき、とっさに「どうしよう!」という。これは「どうにかしなければ!」と言ってる。そのどうにかしなければいけないとおもうがゆえに、混乱の中で水をかき回すことによってそこに渦ができ、うんこがそこでクルクルするのだ。

たみこちゃんはうんこをみつけても「どうしよう!」とおもわないから、水をかき回すこともなく、うんこは海流に乗って去っていく。

溺れる!と思うと必死で水をかくが、かけばかくほどからだに力が入って沈んでいく。力を抜けばそのまま浮く。

わしらは困ると、なにかしようとする。それは不安だからだ。なにかしてないととんでもないことが起ると信じて疑わない。それはずっと小さいときから「ぼーっとするな」といわれたし、「なにかしていないといけない」と思い込まされてきたからだ。

だけどなにかすればするほどどつぼにはまる。
やってやってやり尽くして、それでもちっとも結果が出なくて、ぼーぜんとしたとき、ほよ?っとまったくちがうところからアイディアが浮かぶ。
これって、ひょっとしたら、やってやってやり尽くしたから浮かんだものではないんではないか?ひょっとしたら、なにもしなくても、ほよ?と浮かぶんじゃないか?

やってやってやり尽くして、疲れ果てて、何もできなくなって、ボーゼンとするまでやってみるという手はいつもみんながやっていることだ。

だけどたみこちゃんのよーに、ただ何もせずにことの成り行きをながめているという手もありなんじゃないか?

どっちをやってもいーのだ。

ただそこに行き着くまでの使う労力がちがうだけだ。そのエネルギーの消耗ははかりしれないけどね。でろでろになってぜーぜーいって、過去のつらかったことを山のよーに思い出して、不幸のズンドコに陥ることだって人生の醍醐味だ。
人類はそーやって混乱を味わって生きてきたんだ。


だけどちがう道もあるようだ。
やまんばは、たみこちゃん流でやってみたい。
うんこが出たら、うんこがどう動いていくのか、ただ観察するだけにしてみたい。

だって、さんざんあの手この手とやり尽くしたんだもん。もうこれ以上、過去のデータに従ってアイディアを出してきてもしゃあないと思ったんだ。過去のデータは、過去その時使えたものだ。
いや、その過去だってグッドなアイディアは、とつぜん「ほよ?」っとでてきたものなのだ。どっちにしろ、考えて考えて考えて「自分で」出したアイディアじゃなかったんだ。
とゆーことは、これからだって、自分で絞り出すアイディアは混乱しか生まないんじゃないか?


じっとその場に踏みとどまる。
これ、けっこうできなくない?ほとんど条件反射のようになにかしようとしてしまうではないか。
だからこそあえて逃げようともせず、どうにかしようと考えもせず、ただ起きたことをじっと味わうことができたなら、なにかが動き始める。完全手放し。降参。お手上げ。これがわしらの左の脳で考える範疇を超えるものにうながしてくれる。
そんな気がしてきたんだな。

果報は寝てまて。
うんこはながめろ。


2014年5月15日木曜日

どっちが正しい?どっちも!



意見のちがうものどおしが対立する。
両者互角でちっとも勝負がつかない。

長い格闘を見ていると、これ、そもそも勝負なんてつくもんだろうか?とおもう。

意見が違うのは、産まれた環境も、育てられた親もちがうのだ。考えからからしてじぇんじぇんちがうんだから、どちらかの意見に収まるってのは、ほとんど幻想に近いんじゃないか?

理想としては、
「なるほどそうか。あなたのいうことはもっともだ。あなたの方が正しい」
と納得しておわるってのが理想だ。

だけど現実は、恨みつらみを抱えたままムリヤリどっちかに「おれる」か、はたまた「時間」というベンリなもので「解決した気になる」か、「なかったことにする」か、そこら辺が本音じゃないだろうか。

いやいや、産まれた環境や親がちがうどころじゃないぞ。兄弟だって、とゆーか身内ほど、熾烈な争いが繰り広げられるではないか。近けりゃ近いほど、すごみを増す。

仏教だって山のように宗派がある。
キリスト教だっていっぱい宗派が世界中に広がっている。これって神様の言葉の解釈をそれぞれの解釈で受け止めるからでしょう?
でもって同じ宗派の人たち、同じ思想同士でさえも、中に入ればもやもやした関係が繰り広げられているのだ。それってさあ、人が3人よれば、すでに派閥が起こるってことじゃん。

とゆーことはだ。
自分以外のニンゲンは、み~んな考え方がちがうってことだ。

そもそも自分と同じ意見を持ったイキモノは、この世に存在するんだろうか。いたらその方が気持ち悪い。
ほんとうは、意見が違う方があたりまえで、自然なことなんじゃないか。


気にもとめてない人がへんなことをいうと、
「あ、そーですか。はいはい」
と、そのまんまにしておく。
だけど、身近にいる人がへんなこというと、
「え~~~っ!それ、ちがうでしょう!」
と、その意見にたいして、あーだこーだという。

身近にいるニンゲンは自分にとって重要人物だから、相手を変えて直そうとするのだ。
気にもとめてない人は、自分に何の影響もないから、ほっぽらかしておく。

人に意見して変えようとするのは、自分にとって不都合な事が起こる可能性を秘めているからだ。ま、よーするに、相手を変えようとするのは、自分の身のことを考えてのことだな。


ところが相手は自分を直そうとしたりコントロールされる事をきらう。自分にてらしてみればわかる。やまんばだって、自分の意見を変えさせられようとするといやになるもの。

自慢じゃないが、やまんばは今まで人の考えを正そーとして、正せたためしがない!

むしろその人の考えを、そのまんま受け取ることをしたほーが、1億倍速くことがスムーズにいく。

また、ちょっと賢くその人の行動を理解しようとすると苦しくなる。理解なんかできなくてあたりまえだ。だってその人が過ごしてきた人生を後追いできないんだもん。だけど、間違いなく、その人の考えは、その人にとって「正しい!」ことなのだ。
人が「正しい!」って思っている事を「あなたはまちがっている!」と言い続けてもしかたないのだ。



その人の考えをそのまんま受け取ると、不思議なことに何かの流れが変わる。
理屈ではない何かが起こりはじめる。
理屈や、理性や、方法論や、二元論や、いわゆる左の脳で考えるよーな結果ではないなにかがうごきはじめる。

二つの対立する意見は、まるで対立とは無縁の、統合されるような大きなものに変わっていく。カタチもなく、包み込むような理解のようなものがおとずれる。きっとそれは脳を通さない、胸の奥から来る宇宙の中心からの理解なのだ。



対立する意見は、実はどっちも自分の一部だ。
自分の中に起こった、ある概念が形に現れたものだ。あるものが「正しい」といった瞬間、「正しくない」ものをも生み出す。コインの裏表だ。これは一つのものだ。

対立とは、
「わたしはこのコインの表は必要だが、裏はいらない」
と言っているようなものだ。けっして分ける事はできないのに必死で分けようとする。
自分の中に作ったものをこっちはいるがそっちはいらないとはねのける。
だから苦しい。
でもどっちも自分が生み出した概念なのだ。

そのどちらも自分の胸の中に、すっと引き寄せる。
どちらもそのまま受け取る。
すると胸の奥の異次元空間で概念が次元を越えて、まあるく納めていくのだ。




2014年5月10日土曜日

りんごのよーな大根



最近のやまんば畑のやり方はこうだ。(しょっちゅー変わるのでサンコーにしないよーに)

たとえばキュウリの苗を植えようと思うと、直前まで畝に何の準備もせずほっぽらかしとく。(ふつーは、事前に耕したり石灰入れたり堆肥をいれて待機させる)

「ん、ここ。」
と決めたら、菜の花ぼーぼー、大根の花ぼーぼー、カラスノエンドウぼーぼー、草ぼーぼーの畝をガーッと刈り込む。草やカラスノエンドウは刈ったらそのまま畝の上に乗っける。
大根や菜の花はもう実が着いているし、高さが1メートルくらいあるので、以前は一カ所にまとめてつみあげていた。しかし今年はそれがなんだかもったいないよーな気がして、ハミキリで10センチぐらいの長さにカットして畝の上に乗せる。
苗を入れるとこだけ草たちをまるくどけて苗を入れて、はいおわり。水もまかない。

野菜さんの様子を見ていると、ポイントは表面すれすれの土の状態にあるんじゃないかとおもったわけさ。

山の中は、土の上に落ち葉が落ちてそこで虫さんや微生物さんが忙しく活動して「なにか」を生み出す。その「なにか」に植物は感応していそいそと大きくなってるんじゃないか?
とゆーことは、色々置いてみるってのもアリじゃないか?

それに上にいろいろあると、雨がなくて乾燥した天気でも、夜露をためこんで適度な湿度を保つ。ここんところ乾いた天気だけど、積み重ねた草の下は適度な湿度がずっと保たれている。その湿度に虫さんや微生物がよってくるのかどーかはしらんが、なんか「いーかんじ」なのだ。
ほんでもって欲張りばばあは、刈った大根や水菜の種がそこで雑草化してくれりゃあ、すんげーともおもったわけさ。



今朝も6時に起きて畑でズッキーニの苗を植えてきた(どんだけ早起きのばばあやねん)。

交配しまくった三浦大根が実を付けている畝を刈った。去年種をまいた時、間引かないでほっぽらかしたまんまになってたから、直径8センチくらいの大根が3、4本、ぎゅうぎゅう詰めになって、上に花や実をつけている(どんだけ手抜きやねん)。そのわきに上の部分だけ切って根を残したまんまの大根があった。
それがあるとズッキーニの苗の邪魔になるので、引っこ抜いてもってかえってきた。

スが入ってさぞかしまずいだろーなー、と思って切ってみると、スなんて入ってなかった。少し堅かったが、からいはずの青首のところも甘かった。リンゴみたいな甘さであった。。。
え~~~、し~らなかったよ~。こんなに生命力があるなんて。。。もう5月だよお?どんだけもつんだ。

大根は花をつけ始めると栄養はそっちに供給されるから根っこは枯れて行くんだろうけど、上の部分がないと、大根はそのままある程度まで残ってくれるのかもしれない。
これ1個しかなかったよー。知ってりゃ、そうしておくんだったー。
よし。来年はその手を使おう。

しかし。。。。植物ってすげーなー。。。


絵:「天狗百姓」/「裏高尾の不思議な仲間たち展」より
裏高尾に気むずかしー顔をした背中にかごをしょった百姓じじいがいる。本当は人目を忍んだ天狗なのだ。。。

2014年5月6日火曜日

ウリハおまわりさん



ベランダ育苗が失敗こいたので、地べた育苗に切り替えた。

昼間はお日さまに包まれてあったかいが、地べたは寒い。床下からの北風がびゅーびゅー。夜は衣装ケースをひっくり返してフタ代わりにして寒さをしのいだ。

その結果なんとか四葉キュウリと半白キュウリは本葉をちっちゃいながらも2、5枚つけたので、畑にデビューさせた。どちらもはじめて去年種取りしたものだ。


ウリ科といえば、ウリハ虫。ウリハ虫と言えば、ウリ科ってぐらい相性がいい。やまんばの畑はいつも畑デビューした幼い苗へのウリハちゃんの総攻撃に泣いてきた。

畑デビューさせて、なんとなくいつもならかぶせる不織布もかけず、様子を見てみた。
初日、ウリハちゃん。こない。寒いからだろう。
次の日、こない。暖かいのにこない。なんでだろう。気がつかないだけか?
次の日。あ、きた。いるいる。5、6匹。
でも試しかじりするだけで本気で食わねえ。
それから一週間。試しかじりしたままで終わっている。たしかにいることはいる。しかし一度食っただけで破壊的にまでいかない。
市販のキュウリ苗にもウリハはうろうろするだけ。本気で食わない。



さてここから妄想ゾーンに入る。

オレンジ色に光るウリハちゃんがぽよぽよと空間を飛んでいる。
「お!こっ、このにおいは!」
びゅ~んとやってきたのはやまんばの畑上空。
「おぼえているぞ、ここ。去年はいっぱい食ってやったなあ。どれ。今年はどうだ?」
四葉キュウリに食らいつく。
「あれ?そうでもない。じゃあこっちはどうだ?」
半白キュウリに食らいつく。
「ああ、こりゃ、食う気にもなんねえ」
「あ、あっちにもっとでかいのがあるぞ。」
と市販のりっぱなキュウリの苗に飛んだ。
「おや?そうでもない。そうか。わしの仕事はここじゃいらなくなったんかいの。まあちょこちょこ顔出しするぐらいにしてやるか」

ウリハちゃんはウリ科のおまわりさん。
ウリとしてこの世界でりっぱに生を生き抜くために、アンバランスなウリを出現させるわけにはいかない。へなちょこなキュウリやカボチャを世に送り出すわけにはいかないのだ。

だから肥料でたぶたぶに太った葉っぱや、ベランダでぬくぬくと育った、あまちゃんキュウリの苗は、葉っぱを「食ってやって」なきものにするか、はたまたメタボな葉っぱを食うことによって、よけいなエネルギーを消費させるのをやめさせ、畑の自然の中で育つ強い新芽に全エネルギーを注ぎ込むことをさせているのだ。
その結果苗が消えてしまうのはそれでよし、そこでがぜん頑張る苗ならもっとよし、なのだ。


やまんばはそれまで苗を入れると、しこたま水をかけていた。
しかしある本によると、苗を畑デビューさせる前、苗に水をたっぷり一晩吸わせた後、畑では一週間はまったく水をあげないこと。それは植物の根っこが自力で水を求めて根を深くまでおろすのをうながしているのだという。考えたらそれは理にかなっている。

市販の苗にすりゃ、畑デビューの時やまんばにいっぱいお水を入れてもらえれば、
「あ~、たんまりお水。こんだけありゃ、別に根っこを深く降ろさなくってもへーきへーき」
とぽやぽやする。
かたやベランダ育苗ほくほく育ち、寒さ知らずのなまっちょろいお肌の苗を畑デビューさせたわけだ。

そーすると、巡回中のウリハおまわりさんが、
「あ~、こりゃだめだ。全然弱い苗!こりゃなんとか彼らを回復させるために葉っぱを食ってやらんといかん!」
とばくばく食ってくれてたのだ。


ところが今年は、ベランダ育苗が失敗こき、地べた育苗したことによって、かえって寒さに強い自力で生きるキュウリの苗を育ててしまったらしい。
ウリハ巡回おまわりさんは、今年は「よしよし。それでええんじゃ」
といってくれたんかいの。



わしらは「失敗」すると、いつもあせって何かを足そうとする。だけど足せば足すほどどんどんこんがらがってぐちゃぐちゃになる。植物だけじゃない。あらゆる「問題」に対して、つねになにか足そうとする。

やめる。ひく。そのままにほっておく。
その勇気がなかなかない。

だけどそれが宇宙の法則をそっと教えてくれている気がする。
宇宙の法則は黙って
「こっち。。。」
って指だけさしてくれてるんだ。


2014年5月1日木曜日

『アナと雪の女王』と『裏高尾の不思議な仲間たち』の共通点(大きく出たねえ)



ふじだなさんでの『裏高尾の不思議な仲間たち展』は大成功のうちに終わりました。
お忙しい中、高尾の奥まで足を運んでいただいた皆様方に、深く感謝いたします。
ありがとうございました。


今回は、今まで封印してきた作者の地の部分をモロだしした作品でしたが、思いのほか、とゆーよりは、おもいっきりお褒めの言葉をちょうだいし、なんだか照れくさいような、こそばいよーな、「じゃあ、今までは何だったんや!」となってしまうよーな、そんないろんなおもいがいっぱい吹き出た一ヶ月でした。
力を抜くってこんなことだったんかな~?って、おもいました。

ちょうど今、『アナと雪の女王』のテーマソングがおおはやりだそーで。
ちっこい子供からはじまって、多感な高校生や、わしらの熟女世代、はたまたじじばば(?)までが、
「ありの~ままの~、じぶんになるの~」と、そりゃーもー、大合唱だそーで。
それはまさに「こーでなければいけない」という世間のオキテの呪縛から解放される瞬間の歌であります。いや、解放する宣言!といえるものでしょう。

だからやまんば「ありの~ままの~、つくしになるの~」と、「自分解放する宣言!」の展覧会だったんだろうなあとおもっています。


やっぱりみんな自分自身でいたいんです。
だけど、でるくぎは打たれるとか、常識ではこうだから、というこの世の呪いのようなもんが、ひとりひとりの中にずっしりと居座ってて、それをどける勇気がないんです。

でも自分を解放する行為と言うのは、何も人や外に向けて「おらおら、こーしてやるんだあ~~っ!」って、大きくやる行為だけじゃないんです。自分が自分に向けて、そっとやる行為なんです。それがはじまりなんです。

やまんばは、きのう一日自分の中にどれだけ罪悪感があるのかさぐってみたんです。すると。。。。でるわでるわ山のよーに。。。。。
たとえば納期に間に合わせなくちゃいけない、下手な絵を描いてはいけない、バランスがおかしくてはいけない。。。
たったひとつの線を描くその瞬間にいろんなこうあるべきというおもいがでてくる。そうでなければイケナイ、罪深い、そして仕事が干されれば、それもまた罪深い、。。と罪の連鎖が広がっている。そういう膨大な量の罪の意識が集まって行動を起こしている自分に気がついた。

これはたぶんわたしだけじゃない。みんなにも起っている現象だと思う。それがほとんど無意識の中にたまっていて、そのガマンや罪の意識の限界がきたとき、
「ありの~ままの~、じぶんになるの~」と、歌いたくなるのだ(笑)。

こうあるべき姿と言うのは、誰かの姿なのだ。こうあるべきはあなた自身ではないなにかになろうとする。それは最初っからできない相談だった。

時代はおもしろい。
今のいろんな社会現象が、自分自身であれとメッセージを送っている。



やまんばはきのう、そっとやんちゃな行為をした。
罪悪感を自分の中から吹っ飛ばしてみたんだ。
納期?おくれてもいいや。
へた?へたでもいいや。
バランス?あってるあってる。
するとどうだ。全然すんなりと出来上がってしまった。何一つ心の葛藤を生み出さず。何一つ!

この世の法則とは、ひょっとしたら私たちが長年考えてきた姿とはまるで違う方向性を持っているんではないだろうか。
ほんとうに「ありのままのじぶん」であれば、この世はすごく楽しい世界だったんじゃないだろうか。

今回の展覧会を通して何かすごくだいじなことを教えてもらいました。

みんな!ありがとう!


絵:『裏高尾の不思議な仲間たち展』より。「踊る招き猫」