十何年ぶりに、寝込み系の風邪を引いた。
何で引いたかわからない。でも引くもんは引く。どんなに気をつけてたって、どんなに万全の体制であっても、引くもんは引く。
しかしいざ引いてみると、布団の中で、あーしたのが悪かったのか、こーすれば良かったのかと、後悔と懺悔のオンパレード。
思考炸裂、感情炸裂、カラダの痛み炸裂、自我の大騒ぎに翻弄されまくる。日頃の非二元の訓練(どんな訓練や)はどっかにすっとんでしまう。
こんなとき、とことん「人生は何一つコントロールできない」と、思い知らされる。
指一本自分で動かせない。勝手に動いているのを見ているだけになる。思考のひとつさえコントロールできない。感情も、感覚も。
やっとマシになって来たかと思ったら、今度はダンナにウツしてしまった。さらに険悪なムードに。看病するのも触るのも拒絶される。ハアハア言ってる相手をただおろおろ見ているしかない。色々気をもんでも空回りするだけで、相手の機嫌はもっと悪くなる一方。
絶望的な気分の中で、ゆいいつの風穴が、久しぶりの営業だった。
病み上がりのカラダをおして冷たい雨が降る中、大きな作品をもって歩く。いったい何十年やって来たのだろうか。35年か。。。新しい作品が出来てはこうやって見せに行って来たが、よる歳なみごとに、直接会ってはもらえなくなる。そんな中の貴重なチャンスだった。
担当の方は、私の最近の作品をとても楽しそう見にてくださった。直接仕事にはむすびつかなかったが、すこしだけ手応えはかんじた。とてもありがたかった。
家に帰り着いた。
何も変わってない。
そのとき、自分の心の状態に気がついた。
わたしは未来に希望を託していたのだ。
今ある現状から逃れるために、営業と言う風穴を開けていた。あっちから、いつかいい風が吹いてくるはずだ、、、と。
それは今おかれている自分の状態から目を背けるための手段に過ぎなかった。
「営業」は、私の心の保険であったのだ。
営業さえやっていれば、いつか、どこかで、ここから脱出できる。。!
逆に言えば、何もしていないとは、ここから脱出は出来ない!と。
だから私は無意識に営業という行為に賭けていたのだ。
それは何をかくそう、「ここ」がいやなのだ。
「ここ」をなんとかしよう、「これ」をなんとかかえて、他の何かになろうなろうとしていた。
自分が今ある感情や思考と向き合うことをさんざんやってきたくせに、こんな所に落とし穴があった。
現実の苦しさから逃れよう逃れようとしている自分がそこにいた。
このゆいいつの希望さえもが、逃げであったのか。
抵抗が苦悩を生むことを知っていた。ありとあらゆる抵抗に気がつき、それと向かい合うことをやって来た。私たちがもっているありとあらゆる抵抗。それと正直に向かい合う、ジミーな作業。それでも成果があった。心の中はだんだんと静かになっていった。
そしてそこにはいろんな理解が生まれる。ああ、こういうことだったのか、そういうことか、と。
そんな中で秘密も知る。
やった!これだ!私は秘密を知ったぞ!
もうここから先は苦しみはない!と一瞬の開放が訪れる。
だがそれもつかのま。
また苦悩がやって来る。
この世は固定された方法論など提示してくれない。一瞬一瞬が前回とちがう姿で現れてくる。対応が同じではまったく歯が立たない。
それがこの世界。
何一つ同じものはない。
苦しさは、どうやっても逃れられない。
ゆいいつ、その絶望的な苦しさの中で、癒される。