ちっちゃい時、目の前に現れる風景は、
私が見たら現れる、と思っていた。
だから私の後ろは真っ黒で何もないはずだ。
だけどくるっと後ろを振り返ると、さっと後ろの風景が現れるんだって。
だから私はシュッとすばやく後ろを振り返って、
後ろの風景が現れる前に、その真っ黒を見てみようと、
私が後ろを振り返る速さと、その風景が現れる速さを競い合った。
でもいつも敗北。ちっとも真っ黒な世界を見ることができなかった。
とまあ今考えると、量子力学遊びをしていたわけだ(笑)
そのうちだんだんこの空間の中に、
自分という個別の人間がいると学び始めて、この世界に没入していった。。。
あれから50年。(きみまろ風)
その見ている風景は意識が作ってるんだと知る。
見たら現れると考えたことは、まんざらでもなかった。
しかしその意識が作ってるんだから、
どんなに素早く後ろを振り返っても、勝てるわけがなかった(笑)。
意識から離れてこの世界は存在しない。
つまり意識と世界とは同義語だ。
自我は、「これを作り出したのはお前だ!」と責めてくる。
なんでも責めるのが自我の専売特許だから。
しかしたとえ意識という自分が作ったとしても、それは結果として現れるだけなのだ。
その結果を変えようとしてもできるわけがない。
それはまさに鏡に映った私の心。
鏡に映ったものは自分の内面が現れているだけなのだから、
鏡をいじっても意味がない。
そこをいじりそうになる自分を止める。
それを責める自分をストップする。
コースは、世界に対して裁いてはいけないという。
つまりそれは、自分自身を裁くことになるからだ。
そうすると、本当の自分自身を知ることができなくなる。
ただ流れるままにさせる。
現れるままにさせる。
ここまでは非二元の人たちが言っていることと同じだ。
だけどその先があった。
どう見るか、だ。
どちらの視点で見るか。
その自由意志が私たちにはある。
自我とともに見れば、それは裁き、解釈し、嘆き、恐れることだろう。
あるいは、なかったことにして、素通りしていくふりもできる。
でもそれはいつまでも続かない。どのみち苦しくなる。
しかしこれを聖霊という正しい心とともに見るという選択は、
その見えている世界をこれまでとは違った目で見始める。
ではこの聖霊の視点で見るとはどういうものか。
それはこうですという説明ができない。
なぜならその答えは自我にはわからないから。
でも、そのわからないというところに立つことがいいのだ。
知ってなければいけない、
どこかに答えがあるはずだ!説明責任があるはずだ!
という考えに慣れた自我には受け入れられない考え。
宙ぶらりんの、これまで考えたことのないところに持っていかれる心もとない感じ。
なんの想像もできないことが、私たちが忘れてきた本当の自分自身を知るところ。
それは聖霊を選ぶたびに、少しづつ思い出される。
あ~、なんか知ってるぞ。この感じ。。。
自我は、こう見るとわかるが、
聖霊は、どう見るかがわからない。
目の前を流れていく風景を、聖霊と一緒に見る。
それを選ぶことこそが、
もう聖霊によって連れていかれている。
この、何もわからないところが、
だんだんと「こりゃたまらん」になっていく(笑)