2022年6月28日火曜日

こりゃたまらん

 


ちっちゃい時、目の前に現れる風景は、

私が見たら現れる、と思っていた。


だから私の後ろは真っ黒で何もないはずだ。

だけどくるっと後ろを振り返ると、さっと後ろの風景が現れるんだって。


だから私はシュッとすばやく後ろを振り返って、

後ろの風景が現れる前に、その真っ黒を見てみようと、

私が後ろを振り返る速さと、その風景が現れる速さを競い合った。


でもいつも敗北。ちっとも真っ黒な世界を見ることができなかった。

とまあ今考えると、量子力学遊びをしていたわけだ(笑)


そのうちだんだんこの空間の中に、

自分という個別の人間がいると学び始めて、この世界に没入していった。。。




あれから50年。(きみまろ風)

その見ている風景は意識が作ってるんだと知る。

見たら現れると考えたことは、まんざらでもなかった。


しかしその意識が作ってるんだから、

どんなに素早く後ろを振り返っても、勝てるわけがなかった(笑)。



意識から離れてこの世界は存在しない。

つまり意識と世界とは同義語だ。


自我は、「これを作り出したのはお前だ!」と責めてくる。

なんでも責めるのが自我の専売特許だから。


しかしたとえ意識という自分が作ったとしても、それは結果として現れるだけなのだ。

その結果を変えようとしてもできるわけがない。


それはまさに鏡に映った私の心。

鏡に映ったものは自分の内面が現れているだけなのだから、

鏡をいじっても意味がない。


そこをいじりそうになる自分を止める。

それを責める自分をストップする。


コースは、世界に対して裁いてはいけないという。

つまりそれは、自分自身を裁くことになるからだ。

そうすると、本当の自分自身を知ることができなくなる。



ただ流れるままにさせる。

現れるままにさせる。


ここまでは非二元の人たちが言っていることと同じだ。


だけどその先があった。

どう見るか、だ。


どちらの視点で見るか。

その自由意志が私たちにはある。


自我とともに見れば、それは裁き、解釈し、嘆き、恐れることだろう。

あるいは、なかったことにして、素通りしていくふりもできる。

でもそれはいつまでも続かない。どのみち苦しくなる。


しかしこれを聖霊という正しい心とともに見るという選択は、

その見えている世界をこれまでとは違った目で見始める。


ではこの聖霊の視点で見るとはどういうものか。

それはこうですという説明ができない。

なぜならその答えは自我にはわからないから。


でも、そのわからないというところに立つことがいいのだ。


知ってなければいけない、

どこかに答えがあるはずだ!説明責任があるはずだ!
という考えに慣れた自我には受け入れられない考え。


宙ぶらりんの、これまで考えたことのないところに持っていかれる心もとない感じ。

なんの想像もできないことが、私たちが忘れてきた本当の自分自身を知るところ。


それは聖霊を選ぶたびに、少しづつ思い出される。

あ~、なんか知ってるぞ。この感じ。。。



自我は、こう見るとわかるが、

聖霊は、どう見るかがわからない。


目の前を流れていく風景を、聖霊と一緒に見る。


それを選ぶことこそが、

もう聖霊によって連れていかれている。



この、何もわからないところが、

だんだんと「こりゃたまらん」になっていく(笑)





2022年6月26日日曜日

あんた、誰?

 


「やだ。。。家の鍵かけ忘れてなかったっけ?」

「ストーブの火、切ったっけ?」

「こんな簡単な服装で出てきて良かったかしら。風邪ひかないかなあ」


用事で家を出た後、ふと頭に浮かんだことで、とたんに怖くなる。


一旦家に戻って確認したことが何度あったことか。

しかし鍵をかけ忘れていたことなど一度もなかった。


たとえあったとしても、NYじゃあるまいし、家を物色されることもないだろう。

いやNYでさえ、かけ忘れで100%空き巣にあうことなどなかった。


なのに私はこの浮かんだ声を信じた。

これは神のメッセージじゃないか?と。



私たちは自分の中で聞こえる声を自分の味方だと思っている。

でも大抵は、恐れさせるもの。

ふと浮かんだ思いにビビる。やばいかも。。!


これが私たちを誘ってくる自我の声。


自我は私たちが、後悔することを喜ぶ。

心配することを喜ぶ。

怖がることを、怒ることを、

他人を批判することを、

わーいわーいと喜ぶ。


私はコレにずいぶんやられてきた。

この声がこの世界を重くのしかかるほどにリアル感を演出する。


怖いだろ~?

怖いだろ~?

ほーら、どうにかしないといけないぞお~🎵


そうやって、私たちを「何かしなければ!どうにかしなければ!」と自分をせきたててきたのだ。


でもその声は自分ではない。

なぜならその声を「聞いている」からだ。


つまり自分の外にある。

ということは自分ではない。

頭の中に聞こえているから自分のように思うけれど、聞いている。


聞いている自分は誰?


「そうかそうか。わかったぞ。うん。そうする!」

と、その声に応えているのは誰?




私たちの感情は、その声によって引き起こされる。

大抵はネガティブな感情。

恐れ、後悔、心配、怒り、嫉妬、悲しみ、惨めさ、、、、。


その声はこの世のことはなんでも知っているかのように雄弁に語る。

でもその声が脅すほど、ひどい状態になっていなかったことにも気がつく。

その声を鵜呑みにしたから恐れや悲しみや怒りが始まっていたことに気がつくだろう。



実はその声がなかったら、私たちの心は喜びそのものだ。


何しろ心配の材料が一つも「思いつかない」からだ(笑)。




恐れは、声からやってくる。


その声に疑問を持ち始めたらチャンス到来!


声に振り回されていることに気がつき、

この声が苦しみの原因だと気付いた時、


その声の存在に、マジで気がつく。



「ちょっと待てよ。。。あんた、誰?」




絵:けんぽ表紙イラスト「ひまわり」



2022年6月23日木曜日

巨大な欠乏感

 


この世は、与えたら失う。失ったから、他から奪う。

奪われた側は、また他から奪うという法則で成り立っている。


そうやって奪い、奪い返されを繰り返す。

それは何かが足りないという巨大な欠乏感からくる。


その理由はコースで言えば、

神から離れたら?と思い浮かんでしまった神の子の強烈な罪悪感のせいだ。


欠乏感とは神がいないという欠乏感。

神から離れてしまったと思い込んだがゆえに、神がいないと信じ込んだ。

その思いは意識の奥深くに隠されて、実感などできないほどに忘れられている。


だけど「何かが足りない」という思いはずっと心に残っている。

そして神の子はこの世界を作り出した。

この物質世界で、足りないものを埋め合わせをしようと。


ところがもともと欠乏感から来た思いのせいで作られた世界だから、

与えたら、失うということになった。




仕事をすることは、自分の労力と時間を失う。

だから報酬というお金で埋め合わせをする。

そして支払った側は、また別の形でお金をどこかから奪おうとする。


だがその欠乏感で埋め合わせをしたお金や物質は、

いつも簡単に消えてしまう。

これがあれば幸せだったはずなのに、

いざそれが手に入ると、もうそのことは忘れてしまう。


そして一瞬満たされた思いは、また元の欠乏感に戻り、

「満たしてくれる何か」を探して心はさまよう。


それは死ぬまで続く。

死の直前まで「ああ、こうであったらいいのに」という思いを抱えて。




人は救われるために何かを行為する。

お金を得るために?

家を手に入れるために?

人に迷惑をかけないために?

人によく思われたいために?


犠牲を払うことは美徳のように思われている。

私は正直言って、犠牲は嫌いだ。


いい人のあろうとすることで、犠牲を払って、いい気持ちになる。

クライアントのいうことを嫌々でも聞くことで、

クライアントからオッケーをもらい安心する。


ずっと犠牲の精神でやってきた。

だけどもう限界。いくら犠牲を払ったって、

一瞬ホッとするだけで満たされない、救われない。



ある時、クライアントからの要望に、

受け入れた方がいいに決まっていると思いながら、

一歩も前に進めない私がいた。


もう無理。限界。いい加減にしてくれ。

私がどういう思いでこれを作ってきたのか。わかっていない!


怒りが爆発した。体が震えた。

もう何もできないと思った時、

正直にすべてを打ち明けた。


それは結果を省みたり、相手の心を思いやったりという、

いい人であろうとしない、初めての私がいた。


なぜかとても心は穏やかだった。



次の日、その元にある、私の信念に気がついた。


私は救われていない。

という思いだ。


私は何かが欠けている。

だからそれを埋めることで救われる、

内側が空っぽだから、何かを入れて満たす。

これが外からの何かを求めさせていたものだった。




ある瞬間が訪れた。


私は救われていない。。。。

本当だろうか?


私は、、、救われている。。。。!


一発逆転が訪れた。

それまでの考えが一瞬にして反転したのだ。



私はすでに救われているのなら、外から何で埋める必要があるのか。

もう満たされているのに、そこに何を足していくのだ?



それまでは、やることとは犠牲を払うことだと思っていた。もちろん無意識だけど。


だから心はギクシャクした。無理やりそれをやることであったから。

クライアントを喜ばせて、自分が安心するために。


それは恐れからくる防衛だった。


その恐れとは自分には欠けているものがあって、

救われていないという恐れ。


恐れは敵を外に見る。

クライアントという敵をなだめるために、犠牲という防衛方法で、自分を守っていた。

敵、味方という分離。

恐れは分離からくる。

(もとは神から離れた!という分離)


でも自分は欠けていない、救われていると気がついたなら、

何をやることも自然なことだ。


そこに犠牲などかけらもない。

ただ喜びで行為するだけなのだ。


足すためにやるのではなく、満たすためにやるのではなく、

すでに満ちているものを延長させるために!!!




救われていない。欠けている。

という考えは、自我の考えだった。


救われている。満ちている。

という考えは、聖霊のものだった。



私はあの瞬間、聖霊を選んだのだ。

それは思い込みではなく、真実だ。それだけが実在する。


神から一歩も離れてはいない神の子。

今でも私は神の中にいる。




絵:けんぽ 表紙イラスト 夏



2022年6月19日日曜日

これがあるだけ

 


心の平安と、心の中の物語が消えていることとは関連があるようだ。


非二元の人たちが「これがあるだけ」というのは、

そこに物語がないことを話しているのではないか。


今、目の前に見えるその風景があるだけで、

その形の中から引き起こされる様々な物語、


例えば「これはどくだみでつまんだら臭い」

などという、

モノから導き出され、

つらつらと流れ出てくる解釈がなくなっている。


または、その目の前のことはどっかに行っちゃって、

「あいつはいかがなものか。。。」

という、今ここにいない人のことをつらつら考える。。。

ということがない。


それはどくだみだという名前さえも気にしていない。

「これはどくだみ」という解釈がなく、

ただそのものに感動し、喜びを味わっている。。。


その時そこにまったく物語が展開していない。

頭の中に言葉がいない。





そのまったく心に思考されるものがない体験をしたのち、

以前のように普通に思考が戻ってくると、

そこに平安がないことに気づく。


この世界の住人に戻っているのだ。


この世界は重要で、居場所を確保し、

またはその居場所を誰かに取られないように、

サバイバルしてなければいけない住人に。


どくだみを鑑賞して喜んでいる暇はないのだ(笑)




思考には2種類ある。


この世界の住人として、どうにか生き残る作戦を練る思考。


もう一つは、そもそもそれを本当に信じ続けてていいのか?

この考えを持ち続けている必要があるのか?

と、疑っていく思考。



前者は心の平安をかき乱す。


後者は心の平安へとみちびきだす。




絵:ホタルブクロとどくだみ



2022年6月17日金曜日

絵本「愛タクシー」



ある日、一通のメールが届いた。


ある方の文章がとても素敵で、それを絵本にしたい。

ついてはその絵本の絵を、私に描いてもらえないかというお手紙だった。


彼女は主婦の方でした。

よく聞くと、気に入った文章があると、それを自ら書き起こし、自分で製本にして、

その文章を書かれた方にお渡しするという、稀有な方なのでした。


だがちょうどNYの仕事が立て続けに入っていたこともあり、

その旨も伝え、お断りしようと思っていた。


ところが、ある時散歩していたら、

不意にその絵本のイメージが頭に浮かんだ。


「ああ。こうすればできるかもしれない。。。。

え?やるの?やれってこと。。。?」




それはしゅんすけさんというひとりのカウンセラーの方のお話。


彼の中で目覚めた瞬間を

タクシードライバーという比喩を使った可愛いお話にしていた。


私に依頼してきた彼女は、

とてもその物語に惚れ込んで、どうにかして絵本にしたいと思っていたのだった。


お話は感情というものを細かく描いていた。


感情を絵にする。

それは形のないものを形にするという挑戦でもあった。

でも私の絵はその彼のお話に乗せて作れるかもしれない。


タクシードライバーの人物は描かないでおこう。

タクシーそのものが彼の肉体だ。。。


川沿いの遊歩道を歩きながら、私の中で覚悟ができ始めていた。


頼んでくれた彼女も、断られていると思っていた私の返事にびっくりしていたご様子。


こうしてNYの仕事、日本の仕事、次々に入ってくる仕事の忙しいさなか、

同時に絵本の制作も進み、三ヶ月後には一冊の絵本になっていた。



「愛タクシー」


かわいいそのタイトルそのままのイメージを表紙につけた。


中は白い空間をできるだけとって、

その空間に何かを感じて欲しいとレイアウトした。


制作、レイアウト、版下、校正、印刷製本発注。

自分でここまでできるんだ。

時代は変わったね。

自費出版も夢じゃないかな?(笑)



彼女がいなかったら、こんな挑戦は私にはできなかった。


イラスト料から製本料まで、すべて彼女一人が出してくれた。

私のわがままも聞いてくれ、彼女の舞台で、好きなように私は踊らせてもらった。


彼女のその勇気と大胆な挑戦に敬意を評したい。


ほんとうにありがとう。