旦那の手術が予定時間を過ぎていた。
待合室で待つ私の心に、不安な思いがよぎり始める。
なんでこんなに長いこと時間がかかっているんだろう。。
もしや。。。
待っている間本を読もうと、奇跡講座(コース)の分厚い本テキスト編を持って行ってた。
無作為にバッと開くと、「私は何もする必要もない」というページが開いた。
まさにコースの真髄の部分。
「どの瞬間においても、肉体はまったく存在していない。
それは常に思い出されたり、予期されたりするが、
決して、今、体験されることはない。
肉体の過去と未来のみが、肉体を実在するかに見せている」
まさにそのまったく存在していないはずの肉体に今メスが入っている。
そのことを憂う私がいた。
次の瞬間(というか一体いつだったかわからない)、頭にイメージが浮かんだ。
それは手術台に乗せられ、旦那のクビが切られているえぐいシーン。
そのえぐいはずのシーンを見ている私は、
なぜかとても興味深く、おもしろそうに眺めていたのだ。
「わあ!すごい!これは一体何!?」
我に返った。
「いやいや!いかんいかん!何考えているんだ、私!」
思わず首を振った。
旦那は今頃、自分の首を切られて痛い思いをしているというのに、
どんな非常識な思いで見てるんだ私!と自分を責めた。
そして思ったのだ。
「これが、、、これが聖霊の視点。。。?」
いつも私はお願いする。
「聖霊さん、私は今、自我の目でこれを見て苦しんでいます。
でも私はあなたの見方があるということを知っています。
聖霊さんはこれをどう見ますか?あなたの見方を教えてください!」
聖霊との関わりの中で、幾つもの体験があった。
お願いしたのち、心は穏やかになったこともあれば、何も起きないこともある。
あるいは、何かしらのインスピレーションや象徴的なもので知らせてくれることもあった。
しかし今回のはちょっとビビった。
どう考えたって、嫌なシーンじゃないの!
でもそれさえも、喜びの眼差しで見ることができるのだよ。。。
そういうことを教えてくれていたのだ。
あのシーンを見ている時の私は、肉体というものを
「切ったら痛いもの」としてみていなかった。
その時の私の心持ちは、とても軽く、明るく、喜びに満ちていた。
こんな風に聖霊は私たちの世界を見ているのか。。!
過去も未来もなく、今にしかいない聖霊。
今にいるとは、肉体を自分だと思わない瞬間。
その視点を持つことができるのだと、聖霊は教えてくれていた。
それから徐々にその感じがどんなものであるか感じ始めてきた。
先日の散歩の時に感じた思いと同じものだった。
あらゆるものが幸せに見えている心。
そこには苦悩も批判も判断もなく、物語さえない。
喜びの中でしかものが見えない。
そこには、あの馴染みぶかい罪悪感のかけらもなかった。
それはほんの一瞬の違いだけだった。
ほんの一瞬、横にチョンと移動するぐらいの。
物理的なものを変えるのは時間がかかる。
しかし心は一瞬で変わるのだ。
見え方が変わるのは、こんなにも変化をもたらすのか。
目の前のものは何も変わっていないのに、心はまったく違っている。
これが「選択」ということだった。
術後、先生に呼ばれて、
摘出したものを見せてもらう。
まだ若い先生はどこか嬉しそう。
そのお顔に、「丁寧に取りました」という達成感を見た。
「あ。成功したんだ。」
私はその時確信した。
絵:絵本「白い丘のモミジ」より
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