朝目が覚めたら、懐かしい感覚が戻っていた。
幼い頃の感覚。
あれは7歳ごろの私。母が作った黄色いワンピースを着て、うなだれている。
ちょうちん袖で、可愛いぽっちの柄がついていた。
母が作る服は可愛すぎて窮屈。いつも着たくなかった(笑)
その顔は、この世に一人ぼっちで放り出されて、とても心細く、
この世が強烈に恐ろしく感じていた顔だ。
いつもビクビクして緊張していた。
ああ、寂しかった私がいる。
私は布団から起き、その黄色いワンピースを着た7歳の私を、
イメージした聖霊の祭壇の上に座らせた。
彼女は光の中に消えていった。
私の中の懐かしいあの感覚、寂しさが消えていた。
昨日、いつもの散歩コース、川沿いの道を歩く。
樹々が美しい。梅雨時の葉っぱは青々としていた。
私はそれを始めて見るように見る。
葉っぱ一枚一枚を、ポンポンと指で押し、感触を楽しんだ。
見上げれば、杉の細長い樹々が天に向かって伸びている。
右を向いたら、増水した川の水が踊っている。
足元には、小さな小道の周りにいろんな形の葉っぱたちがひしめいている。
どこを向いても美しい。どこを見ても楽しい。
その時、私の中に物語はなかった。
日常のあれこれを考えることは消えていた。
喜びが限りなく広がっていき、拡張していった。
私は、私という一個の肉体というものとは違う感覚にいた。
私は考えでしかなかった。
いや考えというより、喜びという考えの塊というべきか。
いつもハレルヤさんがいっていた想念とはこのことなのではないか。
喜びがこれを見ている。
それは喜びの眼差しだから、すべて喜びにしか見えない。
この感じ。
知っている。
ずっと昔この感じがあった。
喜びに満ちてすべてを見ていた、懐かしいあの感覚。
それは今朝思い出したあの懐かしい感覚とは全く正反対の、懐かしい感覚。
どちらも考えだった。
7歳の私は罪を見ていた。
自分の罪、親の罪、先生の罪、同級生の罪。。。
そして森を歩く私は、喜びという想念を選んでいたのだ。
それはすぐ隣にあった。手の届くところに。
これが選択だった。
自我という恐れの考えを選ぶのか。
聖霊という喜びの考えを選ぶのか。
それは一石二鳥にはいかない。
私たちはあまりに自我の考えを当たり前のように選択してきたのだから。
だからこそ自我が何を私たちに仕掛けているのかを学ぶ必要がある。
心の中を正直にみる。
誰から隠そうとするのか。隠そうとするのは自我の魂胆。見てもらっては困るから。
でも見ることで光があたる。
光で影が消えるほどに、もう一つの巨大なものに気がついていく。
もう自我を選ばないぞという意志によって。
絵:高知の海。サンフラワーが通っていた。
私はいつも海の向こうを見ていた。
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