「やだ。。。家の鍵かけ忘れてなかったっけ?」
「ストーブの火、切ったっけ?」
「こんな簡単な服装で出てきて良かったかしら。風邪ひかないかなあ」
用事で家を出た後、ふと頭に浮かんだことで、とたんに怖くなる。
一旦家に戻って確認したことが何度あったことか。
しかし鍵をかけ忘れていたことなど一度もなかった。
たとえあったとしても、NYじゃあるまいし、家を物色されることもないだろう。
いやNYでさえ、かけ忘れで100%空き巣にあうことなどなかった。
なのに私はこの浮かんだ声を信じた。
これは神のメッセージじゃないか?と。
私たちは自分の中で聞こえる声を自分の味方だと思っている。
でも大抵は、恐れさせるもの。
ふと浮かんだ思いにビビる。やばいかも。。!
これが私たちを誘ってくる自我の声。
自我は私たちが、後悔することを喜ぶ。
心配することを喜ぶ。
怖がることを、怒ることを、
他人を批判することを、
わーいわーいと喜ぶ。
私はコレにずいぶんやられてきた。
この声がこの世界を重くのしかかるほどにリアル感を演出する。
怖いだろ~?
怖いだろ~?
ほーら、どうにかしないといけないぞお~🎵
そうやって、私たちを「何かしなければ!どうにかしなければ!」と自分をせきたててきたのだ。
でもその声は自分ではない。
なぜならその声を「聞いている」からだ。
つまり自分の外にある。
ということは自分ではない。
頭の中に聞こえているから自分のように思うけれど、聞いている。
聞いている自分は誰?
「そうかそうか。わかったぞ。うん。そうする!」
と、その声に応えているのは誰?
私たちの感情は、その声によって引き起こされる。
大抵はネガティブな感情。
恐れ、後悔、心配、怒り、嫉妬、悲しみ、惨めさ、、、、。
その声はこの世のことはなんでも知っているかのように雄弁に語る。
でもその声が脅すほど、ひどい状態になっていなかったことにも気がつく。
その声を鵜呑みにしたから恐れや悲しみや怒りが始まっていたことに気がつくだろう。
実はその声がなかったら、私たちの心は喜びそのものだ。
何しろ心配の材料が一つも「思いつかない」からだ(笑)。
恐れは、声からやってくる。
その声に疑問を持ち始めたらチャンス到来!
声に振り回されていることに気がつき、
この声が苦しみの原因だと気付いた時、
その声の存在に、マジで気がつく。
「ちょっと待てよ。。。あんた、誰?」
絵:けんぽ表紙イラスト「ひまわり」
0 件のコメント:
コメントを投稿