「悟り」という言葉に私は囚われていたのかもしれない。
この言葉はどこか世捨て人的だ。
何かの犠牲によって得られる境地。
出家してこそ得られるもの、
すべてを捨て去ったのちにやってくる境地。。。
それは、この世界は知れば知るほど矛盾に満ちていて、
残酷で嘆かわしく、
この世界のどこにも答えが見つけられないとわかったからこそ、
そこに向かっていくものなのだろう。
コースはどこか犠牲をともなう悟りというものとは関係がない。
人は悟らなければ幸せになれないわけではなかった。
いや、もともと悟ることによって幸せは得られたのであろうか。
私は悟ったことがないのでそこのところはわからない。
だけど幸せになれることを学んでいる。
劇的な体験も自慢できる体験も何もないけれど、確実に幸せになれる。
「私はいない」の境地にならなければ幸せになれないのでも、
個の自分が消えなければ、幸せになれないわけでもない。
私というものが、自我に覆われていることに気付き、
それを取り除いていくことでだんだん見えてくる本来の自分。
だんだんと罪悪感が消えていくほどに、
自我の黒い雲が徐々に晴れ始め、
その向こうの光が見え始める。
この世界は幻想だと自分に言い聞かせていても、
ちっとも実感が伴わないが、
自分の中にある罪悪感がだんだん消えていくのと比例して、
この世界の実在感が消え始める。
そこで初めて、
「そうだった。そうだった。
この世界は罪悪感によって作り上げられた世界だった。
そりゃ、その罪悪感が消えていくほどに、
この世界が消えていくのはあたりまえだよな」と納得する。
「この世界は幻想だ」と気づいて、
世を捨てて悟りを開いていく道もあるだろう。
コースは自分の中に隠し持っている罪悪感を捨てていくほどに、
この世界はやはり本当に幻想なのだと実感していく道だった。
心の訓練をしながら徐々に罪悪感が消え始めると、
どんどん幸せな瞬間が増えていく。
この世界の幸せは一瞬だ。
ケーキを食べ終わったら終わる。
オリンピックで一等賞を取ってもその頂点は終わる。
仕事で成功してもやがて終わる。
幸せとは、物理的に何かを得て得られる幸せが本当の幸せではなかった。
それは本来の幸せの代替えでしかなかったのだった。
ただここにいることに、開放的な幸せが果てしなく広がっていく。
その口から笑みがこぼれる。
そこに「私」はいる。
けれどもそれは自我に覆われた私ではなく、
本来の私がそこにいる。
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