私の近くに極悪人がいる。
そいつは残酷でアホで私を常に罪人だと言い放つ。
そしていつも私に不幸をもたらすのだ。
こいつをどうしてくれようか。。。
いつも心は私がどれだけ誠実で正しいか。
どれだけあいつは非道で間違っているか。
私の人生に苦痛をもたらすのは、誰あろうお前だ。
そう言い続けていたある日。
その極悪非道なやつの別の面を見た。
それは美しく優しい、
とてつもなく大きな慈悲を持った存在だった。
私はその存在の横で自分の罪が消えていくようだった。
そしてまた極悪人が戻ってくる。
私をこれでもかとなじる。
罪深い!と言い放たれ、
その同じ人間に、言葉ではないけれど、罪などないのだと思い出さされる。
この行ったり来たりに
「なんなんだこれは!?」と。
私たちは、身近な人たちに役柄を与えている。
悪を成敗するお代官様、極悪人、
たいして影響力のない平民、外から文句を言う外野。。
私と言う主人公、、、
ある時はマッチ売りの少女、
ある時は眠れる森の美女、
ある時は高い塔の上に幽閉されたラプンツェル、、、
私を私たらしめるために、役柄を周りに与えている。
ちょっと悲しい、じつは密かにすごい秘密がある美女。
その不幸な美女のまわりに、
悪を働く毒親、、いや魔女や、
美女をたぶらかす蛇などを配置する。
そしてある時は嘆き、
ある時は勇敢にそれと戦って
人生のアップダウンを繰り返す。
とは言っても、ほとんど不幸、時々幸せ程度。
あいつさえいなかったら。。。
あの野郎、そのうちどうにかしてやるぜ。。。
美女は悪態をつく。
これが私たちが日頃繰り返している人生劇場だ。
私たちはこの人生劇場にいきなり放り込まれたかわいそうな美男美女。。。
ではなかったのだ。
この劇場を作ったのは、誰あろう、私だったのだ。。。!
この不幸は私が演出したもの。私はディレクターだった。
ここに来たもともとの理由は、私たちは自分を罪びとだと信じたからだ。
罪人である私たちは、当然罰を受けねばならない。
だから人生のほとんどが不幸。
それこそが罰を欲して、極悪人を配置し、突然不幸がやってきて、
葛藤を繰り広げる演出をし続けていた理由だった。
自分がやっていることに気づき、
私はその極悪人の役柄から、その人を解放した。
悪を成敗するお代官様の役も解放した。
全ての人々に与えた役柄を解放した。
そして私は不幸なすごい秘密を持った美女でもなくなった。
そうしたらどうなるのか。
私は無になるのか。
いいえ。
そこには喜びがあった。
自我の演出は、罪があると、どちらかに渡せば罪は消えるという。
しかし真実は、罪があるといえば、どちらにも罪がある。
そして罪がないなら、どちらにも罪はない。
極悪非道の役柄が消えた時、
私の極悪非道も消える。
そこに自由という喜びがある。