「ひょっとしたら、私は彼女の大いなる愛を受け止められていないのではないか?」
急にそんなアイディアが出てきた。
え。。。彼女の大いなる愛。。。?
「自分は兄弟の大いなる愛に気がついていないだけなのじゃないか!?
気がついていないから、受け取れないのだ!」
そう気づいたとき、そこに友達の大いなる愛を見た。
目の前にその人はいないけれど、
今私の頭の中にいる彼女の本当の姿がそこにあった。
まるで今まで覆っていた布がパサっと落ちたかのように、そこにいた。
びっくりした。
彼女の愛は静かで、さざ波ひとつ立たない聖なる湖面。
大いなる水をたたえて限りなく広がる愛だった。
今まで私は何を見ていたのだろう。
彼女の罪を見て、私の罪を確認する日々だった。
あの瞬間から、
私の罪を彼女に映すことができなくなっていた。
きっとどんな言葉が私に投げかけられても、
その形態の向こう側にいる彼女を私はもう知っている。
それに気がついている限り、モーマンタイだ。(と思う笑)
そしてまた別の友人の愛を見た。
その彼女の愛は熱い愛だった。
「つくし!愛している!」
とバーンと私に向かって両手を広げている。
彼女は全世界に向かって愛を放射していた。
彼女が過去にずっと外に追い求めていた真実の愛は、実は自分自身の中にあったのだ。
彼女が愛そのものだった。
とてつもないパワフルな愛だ。なんて強い愛なんだ。
大いなる愛に違いはないのかもしれない。
だから私が見たものは、本当の愛ではないのかもしれない。
それでも彼らが私の心の一部なのだとしたら、
静かな湖面が広がる愛も、愛を高らかに歌う愛も、私なのだ。
そしてまた近くに、
喜びと遊び心で飛びはねている愛があった。
すべてを包み込んで罪を赦し、溶かしていく愛もあった。
それも私の愛なのだ。
これが「兄弟の神聖さを見る」ということなのだろうか。
私は今まで「兄弟の神聖さ」とは、光の中に包まれた美しい兄弟の姿だと思っていた。
でも私が見たものはそれではなかった。
それでもそこに一切の罪はなかった。
時には湖面のようなイメージを見ることもあるが、そうとも限らない。
形はないけれど、それぞれの兄弟たちが持ち備えている資質がそこにあった。
そして何より面白いことに、
私が彼らにそれまで持っていたイメージとは真逆のものだった。
真実の愛を求めていた彼女は、
彼女自身が愛だった。
混乱の中にいると思っていた彼女は、
とんでもない静けさをたたえていた。
私に罪ばかりを意識させるやつだと思っていた彼は、
あらゆる罪を赦しとかしていく存在だった。
これは一体どういうことなのか。
すべては私の勘違い(笑)。
私が作り上げた虚像だったのではないか。
恐れはあなたが作り出したというコースの言葉そのものじゃないか。
赦しはそれを一瞬で消し去る。
その私を赦す。
これから私はその彼らの大いなる愛だけを見る。
たとえ自我の誘惑に誘われようとも。
彼らの無罪性を見ることは、
自分の無罪性を思い出すことになる。
彼らにその真実を見ることは、
自分の真実を思い出すことになる。
絵:絵本「白い丘のもみじ」
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