2022年10月31日月曜日

お初リトリート体験

 


一泊二日の八ヶ岳リトリートに初めて参加した。


主催者は、末吉愛さん、そらさん、石田佳子さんの3人。


「いつもはしないことをしてみるといいですよ」

と、50人プロジェクトを行なっているえりこさんからもらったアドバイスだった。


それを聞いた時、もちろん心は拒否った。

人と一緒に何かをやるのは大嫌いな私だったから。


ある日、一緒にコースをやっている友達に冗談でこの話を振ってみる。


友達:「じゃあ、ダンナに聞いてみる」

私: 「え?マジ?いや、やめて。。。。」

友達:「行ってもいいって!」

私: 「は!?なにそれ。。。。」


ということで秋晴れの紅葉真っ盛りの清里駅に降り立った。


駅前にたくさんある店が開いてない。タクシー来ない。

かつての繁栄は一体どこに?

ってか、清里来たことないけど。。。

しかし今日は土曜日だぞー。


明るい日差しの中、時々吹いてくる風の冷たさに、

ああ、ここは標高1300メートルの場所だと気付かされる。


聞くところによれば、清里にタクシーは2台しかないというではないか。

待つことしばし。

晴れててよかった(笑)


同じリトリートに参加する人たちに、

タクシーに便乗させてもらう。



同じ山といえど、

目の前にある風景はいつも見る高尾のそれと全然違った。


高尾の山は鬱蒼として暗い森。

ザ・日本の山!って感じだけど、ここ清里の森は、明るかった。

森が優しい。冬は違うんだろうけど。


かつて住んでいたニューヨークの郊外の森に似ていた。

カサカサと踏みしめる落ち葉がニューヨークで踏みしめていたそれとそっくり。

柔らかい地面が心を揺さぶる。

木々の奥に目をやると、あの白樺の後ろに小人でもいそうな雰囲気。


その優しい森の中にリトリートが行われる山荘があった。

かつては登山客で賑わったんだろう趣のある場所。



そこで組まれたプログラムはどれも初めてのものだった。

そりゃ、リトリートなんて行ったことなかったんだから。


どれもこれも気配りの行き届いたプログラムだった。

3人のコンビネーションの見事な動き。

それぞれの持ち味を生かした美しいプログラムだった。




二日間のリトリートの中で感じたことは、

本当に、みんな同じ悩みを抱えているということだった。


私一人が苦しんで悩んでいたと思っていたことは、

みんなが等しく同じ悩みの中で翻弄されていた。


互いに正直な心の中を打ち明ける時間の中で、

じかにその声を聞かせてもらったのだった。


それこそが元はたった一つの心だったのだと気付かされる。


一見違うように見えるそれぞれの問題も形も、

その元を見れば、本当にあるものを見ないようにさせている障壁であったこと。

コースはまさにそれを取り除くことを懇切丁寧に教えている。


だが今度はその障壁に気づくと、

それを取り除くことに逆に躍起になりすぎて、

かえってその障壁をガンガンに実在させてしまう。


「これを、、、これを、、、とっ、、、、取り除かなければ。。。!」と。


そこで聖霊という偉大な助け舟の登場~。

一人では決してできないことを二人でやる。


兄弟と手に手を取りながら、実はそこに聖霊がいる。

決して一人では救われないことをはっきりと見せてくれる。




リトリート中、嬉しくて心が踊る。


真夜中、外に出て満天の星を見た。

なんというギフトだ。


美しい紅葉の中で、本当に自由に遊ばせてもらった。


帰りの電車の中から雄大な八ヶ岳を眺めながら、

心は晴れ渡っていった。




ありがとう、愛さん、そらさん、佳子さん、えりこさん、山荘さん、清里さん、小人さん、

そしてそこで出会った素敵な人たち!





絵:「健康と生活」表紙イラスト


 





2022年10月28日金曜日

高尾での展覧会

 


来月、展覧会を開きます。

場所は高尾。


JR、京王線高尾駅と、京王線高尾山口駅の

ちょうど中間あたりにある、

閑静な庭園の中で作品を展示します。


とき:11月23日(水)~12月6日(火)無休 入場料無料

時間:午前9時30分~午後3時30分

場所:高尾駒木野庭園(たかおこまぎのていえん)

   東京都八王子市裏高尾町268ー1

電話:042-663-3611


JR中央線・京王高尾線「高尾駅」より徒歩15分

京王高尾線「高尾山口駅」より徒歩15分

バス:高尾駅から北口バス乗り場 京王バス「小仏」行きに乗り、

   「病院前バス停」下車0分(平日は本数が少ないのでお気をつけください)

時刻表:京王バスナビ HP http://www.bus-navi.com/


高尾駒木野庭園ホームページ:https://www.takaokomaginoteien.jp/


戦前の美しい日本家屋の中のあちこちに、私の作品を展示します。

家屋からは美しい手入れの行き届いたお庭が見えます。

その後ろには借景として高尾山も見えます。

お抹茶やコーヒーなどを飲みながら、ぜひ素敵な時間をお過ごしください。


気をつけて欲しいところは、閉館時間が早いことです。

午後3時半には閉まります。

お気をつけください。


つくしは、休日、土曜、日曜の11時から庭園にいます。

それ以外で来られます時は、庭園の係りの方にご一報ください。

急ぎ馳せ参じます。



この高尾の地で、毎日毎日眺めている植物が織りなす景色を、

和紙と水彩で表現してみました。


昔は洋紙というものを使って作品を作っていましたが、

和紙に切り替えてから、日本ならではの和紙の奥深さを日々感じています。


透けるほどに薄い和紙や、穴がたくさん空いた和紙、

ゴツゴツとしたテクスチャーなど、

あらゆる顔でもって、私に語りかけてきます。


毎回彼らから醸し出される香りに驚かされ、

彼らをどう料理していくかが、私の今の喜びです。


かつて使っていた洋紙には考えられないほどの可能性を秘めた和紙。

その私のおどろきを、直に見てもらえば、

きっとそれを感じ取ってもらえると思います。


デジタルが当たり前になった世界だからこそ、

こうしたアナログな作品がさらに輝きを増していくのではないでしょうか。

などと一人ほくそ笑んでおります。


ぜひお越しください~。







2022年10月26日水曜日

今日はダジャレが出なかった

 



「〇〇さんに聞いてみたらどうですか?」

そう言って電話を切った後、心が騒いだ。


あの人は私に相談してきたのに、私には答えが出せず、

もっとよくわかっている人のところに相談された方がいいとアドバイスをした。


それは適切な答えであったとも言えるが、

「私にはその能力がない」ということを自分で示した形にもなった。


自分の無能さをさばくという心の習慣がある私は、

即座に重苦しくなった。

この不快な気持ちで、もう一つのことに気づかされる。


「今、私は私に罪を見ようとしている」


自分の至らなさを見つけ、それをさばこうとするのだ。




「あの人、機嫌が悪い」


などという思いもまた人に罪を見ている。

こっちが気を使わないといけないなんて、疲れるわと。



私たちは絶えず外と内に罪を見ようとしている。

実はそれがこの世界を作り出す原動力になっている。


ただ理由もなく、そこにあらわれるのではない。

そのあらわれるものは、自分が作り出している。

自分がそこに罪を見たいと思ったから、そこにあらわれるのだ。


だから引き寄せの法則も、途中まではあっている。

見たいものをそこに表すのだから。

だけど深いところで本当に自分が思っているところを見れば、

私たちは幸せになんかなりたくないのだった(笑)。




その私が私に(人に)罪を見ようとしている。

作り出そうとしている。


作り出すということは、もともとそこにはないということ。

何もないところに、罪の形を生み出そうとしていた。


「兄弟がしていないことについて、彼を赦す」

というコースの意味不明な言葉はここに理由がある。


兄弟は何もやっていない。

私は、兄弟が(もちろん自分も)やっているかのごとく見たいのだった。


それはこの世界を実在させ続ける。

あの罪、この罪を見て、ある時は自分を無垢な人間としてみたがり、

ある時は自分をどうしようもない人間としてレッテルを張る。

そしてこの小さな限界のある人間という器の中で、恐れて暮らすことを欲しているのだ。


しかしそこに真実はない。

自分は、何かが勝手に作り出されたものに翻弄される被害者などではなく、

自分自身が作ったものとして、その責任においてそれを手放すことができる。


私は自分の心の中にじっと入って、自分が自分に見たがっている罪という形を

本当は実在していないものとして赦した。


その時、形になろうとしているものの後ろに、何もないものを一瞬垣間見た。


すーっ。。。。


さっきまでの重苦しい自分への罪の意識が消えていった。





この形の世界の中で、その形が消えることはない。

例えば目の前の一冊の本が、一瞬で消えることなどないように。


しかし心の中の重苦しさは、一瞬で消える。

このことにはいつも驚かされる。


心がいかに私たちの世界を占めているのかに気づく。


形がこの世界を覆っているわけではないのだ。

心が、つまり考えが、この世界を埋め尽くしているのだ。




今日はダジャレが出なかった。

(そこ!?)




絵:「健康と生活」表紙イラスト/ダンス



2022年10月23日日曜日

不幸んこの回収、お願いします。

 


ある時、何をしたわけでもないのに、

急に幸せになったりする。


目の前のものが生き生きして見え、心は溢れんばかりの喜びに満ち溢れる。

「うわ~なんじゃこりゃ~。しゃーわせでたまらんわー」

をしばし味わい、おばさんは部屋で小躍りをする。


そしてまたフツーに戻る。


でもその感覚はどこかに残っていて、

胸の奥あたりに「ん?」って探すとそこにある。

火種がいつもあって、そこにフォーカスすると、また燃え上がる。



そういう経験を繰り返すと、私たちはもともと幸せなんじゃないかと思う。


そう思い始めると、コースがいうことがマジなんじゃね?とじわじわくるのだ。


神から離れてみたら?というアイディアが、

神とは反対のものを味わってみたいと思うなら、

そりゃあ不幸せを味わいたくてこの世界を作ったんだろうなと思えてくる。



この世界はなんて不幸なんだ!

と嘆いていた時間がかなり長かったが、別の方向からみはじめると、

そうか。そもそもその不幸が味わいたかったから、不幸な夢を作り出しているんだと。


コースには最初っからそう書いてあるが、「ふん。まさかね」と思っていた。

その「まさか」だったのだ。

とんでもない「まさか」であった。


その「まさか」は、人を自由にする。



不幸とは、罪から始まる。

私たちは罪を見続けている。


その代表的なものがカラダだ。

カラダのことを忘れている時なんかほとんどない。


例えば、人と自分を比べる材料はカラダ。

「心が傷ついた」という発想が出てくるのも、

カラダという物質が傷つくと考えていることからくる。


自分の収入と人の収入を比べるのも、

自分の財布と人の財布は別物と考えているから。


それは目に見える物質的カラダが分かれて見えるからだ。


ワンネスを本気で信じていたら、

人に傷つけられたと思うはずがない。




私たちは、自分や人をどこかで常にさばいている。


そのことに気づいていくことで、

自分の不幸の原因を見つけていくことができる。


私は常に自分のカラダをさばいている。

若い時から、今に至るまで。

過去こうであったのに今は違うという。

そのそうであったその過去でさえも、その時の自分をさばいていた。

この頃、ますますさばく材料が増えてくる(笑)


カラダはさばきの代表だ。

カラダは常に罪を思い起こさせる。


カラダを意識した瞬間、罪を感じる。

ここが嫌だ。こうなってくれたらいいのに。


その思いから、そうなっていない自分をさばき、そうなるように策を練る。

だが努力してもそうはならない。

自分とは程遠い美しい人を見ては、また自分をさばく。


その考えの中にいる限り、ずっと不幸。

それは願ったり叶ったり。

だってそれを欲したのは自分だから。


ということは、

欲した原因を知ることは、

それをいらないということができる。


不幸遊びはもういらない!もう必要ない!ときっぱりいうことができる。



そこで電話をするのだ。

私:「聖霊さん、この『不幸んこ』の回収をお願いします。」

聖霊さん:「よっしゃ!任せとけ!」




絵:「高尾の天狗と紅葉」



2022年10月21日金曜日

どよ〜ん

 


冬に入る前にお気に入りのはんてんを押入れから出した。

臭い。。。


なんども洗っているけれど、押入れから出すたび臭い。

意を決してクリーニングに出す。


「お客様。カビというものは植物と同じです。

いわばタンポポが生えている状態。

それをお客様が、パンパン!などと叩いてしまっては、

タンポポの産毛はあらゆるところに飛んでしまい、

その元々生えている根っこがわからない状態になってしまっているのです。。。」


延々と細かい説明をしてくれる。

だんだんどよ~んとしてくる。

クリーニングのお姉ちゃんは、親切で言ってくれていると思うのだが、どことなく防衛を感じる。


「だいたい布の耐性期間は三年と思ってください。」

その言葉の後ろに、

「それをあなたは一体何年間着ているのですか?

この様子だとゆうに20年は着てますよねえ。

それを私どもに再生しろと?

どのような状態になっても知りませんよ。

あくまで元々はあなたの責任なんですから。。。。」


言葉にならない説教と威嚇が見え隠れする。。。w


これどこかで聞いたことが。。。

あ。スマホの契約の時だ。

タイマーを横に置いて、45分だったか55分間、

「もしこうなったらケースと、そんな場合はお客様責任です」

という懇切丁寧という名の防衛が延々と続く。


まあ、この世は防衛と攻撃の世界。

自分の保身、会社の保身のために「説明責任」は必要なんだろう。



クリーニング出さない方が身のためか。。?

とも思わせるほどの懇切丁寧な説明をたくさんいただき、

どよ~んとしたまま、お願いをした。




「お願いしま~す」

「あいよ任せとけ!」

「え~~~。ぺったんこになっちゃったじゃん」

「あーすまんのう~」

「まあ、しゃあないか。長年着てたんだもん。寿命寿命」


そうはいかない時代。

どよ~んとしたまま、クリーニングをお願いし、スマホもお願いする。

こっちの覚悟が試されるのだ!


これも私の罪悪感の投影。

そういう世界を見たがっているのだ。


それを軽々と、笑いながら超えていけるようになりたいね!




絵:アメリカのコージーミステリーブックカバー




2022年10月18日火曜日

素敵な言葉!


 

「私は神さまが住まわれる家です」


ある方のブログの中のこの言葉が私の心を射抜いた。


この言葉を自分に語りかけると、フワッと広がる。


「家で」というのがいい。


体ですと言ったりしたら、境界線を感じる。

内と外が分かれている感じで、その中に神を閉じ込めるように。



しかし「家」というのは、実は漠然としている。

一つの建物だけではなく、庭もあるし、住んでいる場所や地域にまで広がる。

生活している場所だ。


いやそんなふうでもないかもしれない。

なかなか上手く言えないが、

神と私は一緒にいるという感じがするのである。


その時自分は体だという感覚が消えている。

どこまでも広がって行き、神の中で休らう。。。




最近、近所で夜になると鳴く犬がいる。

鳴くというよりは、泣くという感じ。

ずいぶん年老いて、外飼いをされている。

ひょっとしたら痛みがあるのかもしれない。


その彼にそっと心でささやく。

「あなたは神さまが住まわれる家です」


その瞬間、私の頭の中の彼の姿が消えた。

そして彼の泣く声が、喜びの声に聞こえたのだ。


私:「え。。。喜んでる?」


犬:「くう~ん、くう~ん。悲しいフリをしているよっ!

ほら!ほら!ね?楽しいでしょ!?」


、、、マジっすか。

そうか。悲しいフリをしていたんだね。。。。

ウンウン、たしかに真に迫っている!うまい!


布団の中で笑いがこみ上げてくる。喜びが溢れてくる。

真っ暗闇の中で最高に楽しくなってくる。

そうか。私はフリをしているんだ。



そうか。そうか。。。。

これ、フリなんだ。。。!


神から離れたというフリ。

という、とんでもない罪を犯したというフリ。

だからこそ罰を与えなきゃいけないというフリ。

で、この世界を作ったフリ。

でその世界の中で苦悩しているフリ。。。。


だけどすっかりそのフリをフリと忘れてしまったのだ。

真剣に取り組んでしまったのだ。



でもフリだから真実じゃない。

それを思い出させてくれるのがこの言葉だ。



「私は神さまが住まわれる家です」





絵:ぽんぽこたぬき