恥ずかしながら、自分のことを告白しようと思う。
私は小さい頃親の顔色をうかがって生きていた。
今日は機嫌がいいか悪いか。機嫌が悪いようならどう対処しようか。あの手この手をそれとわからないように対処した(つもり。ほんとは「正しく」対処できていたかどーかは知らん)。
そしてその心の習慣は大人になっても維持され、結婚してもダンナの顔色を見続けた。同じ屋根の下で暮らす自分以外の存在の顔色や機嫌を見ながら、ビクビクして生きていたのだ。
それを男女の力の違いとか、権力の力のちがいで、どうにもならないことのように思ってきた。
それがゆえに私の中に被害者意識があったようだ。傲慢な主人にひれ伏す哀れな奴隷。牢獄から永遠に抜け出せない囚人。
絵本の中のマッチ売りに少女の哀れな姿に自分を重ね合わせ、
「ああ、私ってなんてかわいそーな少女なの?」などと、自分を哀れんでいたのだ。
これを自己憐憫と言う(しっとるわい)。
さて、その自分にはっきりと気がついた時、あるブログであることばに触れた。
「今までと同じことをしていたら、
今までと同じことしか起こらない」
ドキッとした。
私はずっと親やダンナの顔色を見て、ビクビクすることをしてきた。つまり頭の中で、
「ダンナの機嫌は見るもの。機嫌が悪いことには、どうにかして対処するもの。」
という観念があたり前のようにあり、
という観念があたり前のようにあり、
「ビクビクと怯えながら生きるのが人と暮らすことなのだ」
と言う、もっと奥に小さい時に植え付けた恐怖があった。
だがその原因は、他人にはなかった。その恐怖は何も手だてのできないどうしようもないものではなかった。
原因は私にあったのだ。
その原因は、ビクビクする反応をずっと繰り返し続けていたことだったんだ。
だ、か、ら、同じことしか起こって来なかったんだ!と。
だがその原因は、他人にはなかった。その恐怖は何も手だてのできないどうしようもないものではなかった。
原因は私にあったのだ。
その原因は、ビクビクする反応をずっと繰り返し続けていたことだったんだ。
だ、か、ら、同じことしか起こって来なかったんだ!と。
そして、そのブログは、
「それでいいのかい?」
と、私に聞いてきたのだ。
今までと同じように、ビクビクと人の顔色をうかがいながら生きると、また今までと同じようにビクビクしながら対処法を考える、というゲームが続くだけなのだ。それでいいのかい?と。
私はそれはもうイヤだ!!!と思った。
もうこりごり!もうあのおもいを持ち続けるのはもうこんりんざいイヤだあーっ!と。
私は自己憐憫におぼれていたのだ。どこかで悲劇的な主人公をひそかに演じ、不幸な私を哀れんで楽しんでいたのだ。
だけどそこにもはや未来はなさそうだ。同じところをぐるぐる回る「不幸な私」の回転木馬だ。
自分の姿をはっきりと外から見た。そんな自分がバカらしくなった。
私は哀れな囚人や奴隷やマッチ売りの少女を卒業する。
今までと同じ反応はしない。
そう自分に宣言した。