2015年4月30日木曜日

それでいいのかい?



恥ずかしながら、自分のことを告白しようと思う。

私は小さい頃親の顔色をうかがって生きていた。
今日は機嫌がいいか悪いか。機嫌が悪いようならどう対処しようか。あの手この手をそれとわからないように対処した(つもり。ほんとは「正しく」対処できていたかどーかは知らん)。

そしてその心の習慣は大人になっても維持され、結婚してもダンナの顔色を見続けた。同じ屋根の下で暮らす自分以外の存在の顔色や機嫌を見ながら、ビクビクして生きていたのだ。

それを男女の力の違いとか、権力の力のちがいで、どうにもならないことのように思ってきた。

それがゆえに私の中に被害者意識があったようだ。傲慢な主人にひれ伏す哀れな奴隷。牢獄から永遠に抜け出せない囚人。
絵本の中のマッチ売りに少女の哀れな姿に自分を重ね合わせ、
「ああ、私ってなんてかわいそーな少女なの?」などと、自分を哀れんでいたのだ。
これを自己憐憫と言う(しっとるわい)。



さて、その自分にはっきりと気がついた時、あるブログであることばに触れた。
「今までと同じことをしていたら、
今までと同じことしか起こらない」
ドキッとした。

私はずっと親やダンナの顔色を見て、ビクビクすることをしてきた。つまり頭の中で、
「ダンナの機嫌は見るもの。機嫌が悪いことには、どうにかして対処するもの。」
という観念があたり前のようにあり、
「ビクビクと怯えながら生きるのが人と暮らすことなのだ」
と言う、もっと奥に小さい時に植え付けた恐怖があった。

だがその原因は、他人にはなかった。その恐怖は何も手だてのできないどうしようもないものではなかった。
原因は私にあったのだ。
その原因は、ビクビクする反応をずっと繰り返し続けていたことだったんだ。
だ、か、ら、同じことしか起こって来なかったんだ!と。

そして、そのブログは、
「それでいいのかい?」
と、私に聞いてきたのだ。

今までと同じように、ビクビクと人の顔色をうかがいながら生きると、また今までと同じようにビクビクしながら対処法を考える、というゲームが続くだけなのだ。それでいいのかい?と。

私はそれはもうイヤだ!!!と思った。
もうこりごり!もうあのおもいを持ち続けるのはもうこんりんざいイヤだあーっ!と。


私は自己憐憫におぼれていたのだ。どこかで悲劇的な主人公をひそかに演じ、不幸な私を哀れんで楽しんでいたのだ。
だけどそこにもはや未来はなさそうだ。同じところをぐるぐる回る「不幸な私」の回転木馬だ。

自分の姿をはっきりと外から見た。そんな自分がバカらしくなった。

私は哀れな囚人や奴隷やマッチ売りの少女を卒業する。
今までと同じ反応はしない。
そう自分に宣言した。





2015年4月27日月曜日

ヘビと目が合う



いつものコーヒー屋さんにむかう途中、道の脇に川に降りる小さな石の階段を見つけた。私はふと川に降りたくなった。

10段ほど降りると、小仏川のほとりに出た。キラキラ光る水面が美しい。所々で顔を出す岩の上には、きれいな若草色の細長い草が頭に毛がはえたように茂っている。しゃがんで水をさわり、そのおもしろいコントラストをながめていると、水の中を一本の赤茶色のヒモが流れていく。
よく見ると、ヘビだった。

「きれいなヘビだなあ。ヘビはこうやって移動するのか。。でも川上にもどるには、地上を這ってもどるのかな。。?」と考えた。

すると、それまで脱力したように流されて、目の前を通り過ぎて行ったヘビが、急に川の流れに逆らうようにくねくねとカラダをくねらせながら、力強く川をのぼりはじめたのだ。

「ほう。。。すごい力だ。たのもしいなあ。」
そう思って見ていると、ヘビはどんどんこっちに向かって泳いできた。
「え。。?」

赤茶色の肌に小さな黒い斑点の柄が入った美しいヘビは、小さな頭をちょこっと水面から出して、こっちに向かって泳いできたのだ。それはなんの躊躇もなく、まっすぐ私に向かって。。。
小さく可憐な瞳は私をじっと見つめて離さない。どんどん距離が縮まり、ほんの40センチ。ち、近い。。。

心臓がドキドキする。マムシでないことはわかる。ヤマカガシでもなさそうだ。もしそうだとしても手荒なことをしない限り、噛まれることはない。でも彼女(?)がここにきたなら、いったいどうなるの。。?
「や、やっぱ、こわいよ。。。」

私はしゃがんだままゆっくりあとづさりした。すると私の態度を見たへびはいったんそこで止まる。まるで空中をホバーリングするクマバチのように、川の流れにカラダを流されないようにバランスを取りながらその場に停止した。

そして私の心を読みとったかのように、
「あ、そ。あたしのことこわいの。じゃあ、いいわ」
と、少し後ろに下がったのち、また川に流されはじめた。

立ち上がって、その様子をながめる。するとまたきびすを返すかのように、力強く川に逆らって泳ぎはじめ、少し離れたところで彼女は上陸した。小さな岩の上に生えた草の影にカラダを隠しながら、やっぱりこっちを見ている。もうさっきのようにこちらにはよって来ず、私の心の様子をジッと観察しているかのようだった。

「じゃあね。さようなら」
そういって私はその場を去った。


それからずっとあのヘビのことが頭から離れない。帰ってネットで調べた。ジムグリという地中に住むおとなしいヘビだった。危ない状況でなかったことは確かだ。だけどそんなことよりも、どうして私に向かって泳いできたのか。
彼女は明らかに私を意識していた。攻撃しようとしていたわけでもなさそうだ。でもなぜ。。。


ひょっとしたら、私の心を読んでいることを教えてくれたのではないか。
「知ってるよ。あなたが今どう考えているか」と。

畑にいてもそれは感じる。畑の植物たちに見られているという感触を度々感じる。
先日出会ったサルもそうだった。私がそのサルに気づいた瞬間、そのサルも私に気づいた。すべては同時に起こる。

あの時、ヘビは私の心に反応したのだ。「こっちに来て欲しい」というおもいと、「いや、怖い。来ないで」というおもい。そのどっちも的確に気づいていた。その私のどっち付かずの反応は、そのまま彼女の行為に現れていたのだから。

山で野生動物にあうと、こちらが怖れを抱くと、向こうも怖れを感じて襲ってくるという話を聞いたことがある。アマゾンの川の中でワニと遭遇しても、静かにしていると襲わないとも聞く。熊を見て恐怖を感じるから、熊も自分の中に恐怖を感じ、身を守るためにおそってくるのだ。それはまるで鏡のようじゃないか。

もしあのヘビを川で見た時、「やだ、こわ~い」とおもったら、そのままヘビは流れて行ったのかもしれない。でも私がヘビに興味を持った。きれいと思った。どこかで触りたい。。とでも思ったのかもしれない。だから反応したのだとしたら、私たちは自分の心が今この瞬間何を感じているのかをさぐることは、とても有意義なことかもしれない。


2015年4月26日日曜日

植物ってゴージャスだ



去年近所の人からもらったエビネランが花をつけた。きれい。可憐で質素で、、イヤイヤ、ゴージャスだ。

やまんばの庭は草だらけ。カラスノエンドウ、ヒメオドリコ草、スギナ、三つ葉、ヒメジオン、などなどうわーっとはえている中で、冬の間にひたひたと土の下で自分の陣地を広げていったエビネラン。

去年寄せ植えに凝ったやまんばは、鉢の中で花が終わった苗を、直接庭に植え替えた。多年草の花たちは一体どうするのか、ほっぽらかした。今、じわじわと去年の苗たちが出現しはじめている。でも全体の3割ぐらい。あとの苗は消えたみたいだ。

やまんばはそんな植物たちをながめて楽しむ。
今、畑で種を降ろしている。しゃがんで草をよけている時、低い視線で草たちを見る。目の前に広がるかれらのコンポジションが美しい。

まるっこくってちっちゃな葉っぱが並んだスズメのエンドウ、葉っぱがレースみたいなナズナ、しゅんしゅんと長い茎を持ったノビル、ちっちゃなハコベの白い花、エンドウのピンク、オオイヌノフグリの青紫。それらが渾然一体となって、やまんばの目の前にある。

両手で四角を作ってその中の風景を眺めてみる。うわーっ、すごい。メトロポリタン美術館に飾ってある絵と同じか、それ以上に美しい。タペストリーのようだ。お日さまの光が葉っぱを透けさせたり、影を作ったり、もうありとあらゆる緑色がざわめく。先日新宿の百貨店でであったトルコの絨毯のようだ。
やまんばはそんな風景をみると踊りたくなる。思わず小躍りした。


今、展覧会の絵を制作中。
植物ってゴージャスだ。大好きなゴブラン織りも、イスラムの装飾もみんな元になるのは植物だ。その時代の職人さんたちは、すぐ身近にあるその草たちを感動とともにながめて、それをモチーフにしたのかもしれない。やまんばもその植物たちのゴージャスを絵にしてみた。

ありがとう、植物たち。



2015年4月24日金曜日

夢を見た



最近のやまんばの夢のパターンは、とにかく大勢の人、人、人。人がいっぱい出て来る夢ばかり見る。

昨日のそれは、母方の親戚の集まりだった。
古くて、暗くて、でっかいお寺のような家に、親戚一同何十人も集まった。そこには亡くなった祖母までいる。遠いむかし、あったことのあるようなないような人々は、なぜか巨大なひな壇に座っていた。母の顔はわかるが、他の親戚はだれがだれかわからない。

やまんばはそこにあったふとんをたたんでいた。すると足首に何かがさわった。見下ろしたが、なにもない。ふとんの端っこでもさわったんだろうと思って、となりのふとんをたたもうとしたとき、ふとんの表面が動いた。
「あれ?」

薄暗いへやの中で目をこらして見ると、ふとんの下を何かがごそごそ動いている。しかも「きゃー」とか、黄色い声が聞こえる。やまんばはばっとふとんをはぐった。

「ビリケン」ってこんなやつなのだろうか。大きさは、30センチぐらいの小さな男の子。色黒でスッポンポンの小さな子ども(?)をやまんばはつかんだ。
「つっかまえたー!」

手の中で動き変わる元気な子だった。坊主頭でやや細長い顔。目は小さくきりっと上につり上がっている。明らかに東洋人の顔立ち。ふとんの下にはあと何人かいた。彼を残してみんなどこかに散っていった。

彼の説明によると、人がいなくなった古い家に彼らは住み着くんだそうだ。玄関先の下駄箱の中にすみかがあった。中はなぜか明るい。そこは老若男女の大所帯だった。やまんばはその中を見せてもらったり、彼から色々話を聞いた。

目が覚めると、そのほとんどは覚えていなかった。ただ両手の中であの子が動きまわるシーンが強烈に心に残っている。





2015年4月23日木曜日

「どなたさまでしたっけ?」



 行きつけのお店に今度の選挙に出馬している若者がごあいさつに来た。でっかいたすきをかけているなかなかのイケメン。

「彼ねえ、ちっともあたしのこと覚えてくれないのよ。このお店で何回も会ってるのに、道ですれ違って声かけたら、『え~と、どなたさまでしたっけ?どこでお会いしましたっけ?』と、毎回言うの」
「あははー。それ、政治家として致命的じゃん」とやまんば。
「そーでしょー?」
「あれ?けどさあ、それってとっても正直だよね」
と、ふと思う。ぼくはあなたのことを覚えていないのですって、ちゃんと言えるのだ。
「そーいや、そうねえ。。」

ちまたにあふれる政治家さんたちは、つねに笑顔で人々と接する。
道で「こんにちは~」と声をかけられると、
「どちらさんですか?」とか、「どこでお会いしましたっけ?」
なんて野暮な質問はしない。知らなくても、心で「だれだっけ?」と思っても、表面はさも知っているかのよーなフリをする。
いやショージキ、一般人のやまんばでさえ、そんな質問をするにはちと勇気がいる。
それを何の抵抗もなく聞けるのは、ほんとのアホか、ほんとに素直な人かどっちかだ。

うまくごまかすのが政治家の特権のよーな世界に、こんなバカ正直な政治家がいてもいいのかもしれん。



2015年4月15日水曜日

やまんばはただ種を地面に降ろす人



朝起きたらお天気だったので、たまっていた洗濯物をしこたま干して、さっそく畑に種を降ろしにいく。

ヒメオドリコソウとオオイヌノフグリをのこぎりガマで地面スレスレにカットすると、雨に濡れてしっとりした土が現れる。ここにウチの畑で4年目の上高地キュウリを入れる。3、40センチの間隔をおいて、種を入れるところだけ手鍬でちょっと耕す。そこに4粒入れて、ポンポンと手で鎮圧。おわり。

次、ねずみ大根がこぼれ種で広がった畝に赤紫蘇を。ここはサルにほとんど食われた。ちっこい大根が今紫色の花を咲かせている。種取り用の花をのぞいて他は引っこ抜く。これもまたのこぎりガマで、草を刈って、全体的に浅く土をほぐして、ぱらぱらと種を降ろす。手で鎮圧。おわり。

風が吹きはじめる。西の空に黒い雲が現れはじめた。
あれ、予報よりはやい雨かな?とおもいつつ、一部に青空がちらっと見えたので、畑続行。先日ギシギシを引っこ抜いておいた畝を整理して、ウチでとれた春菊の種を降ろす。

風がどんどん強くなってきた。もう秒読み開始だ。
来るぜ。
ポンポンと手で鎮圧したのち、道具を小屋において家に走る。家に着く直前に降り始めた。家に着いたらどっと雨。ちょっとぬれたけど、洗濯物セーフ。

ネットで調べものをしているうちに、また晴れた。
今日はふしぎな天気。

やまんばは野菜を育てる人ではない。
種をただ地面に降ろす人だ。
どーなるか、未来のことは知らん。



2015年4月14日火曜日

今年の畑の雑草



ここのところの雨、畑に何も入れられない。
畑から見える高尾のお山は、霧がかかっていて、山桜と若葉が見え隠れして、さながら幽玄の世界だ。
やまんばは傘をさしつつ、雨の畑をうろうろする。

毎年雑草の植生が変わっていく。
今年はハルジオンとスギナがなりをひそめた。かわりに、ヒメオドリコ草が畑一面に広がっている。こんなのははじめてだ。カラスノエンドウも少ない。代わりにスズメのエンドウが広がるが、ヒメオドリコ草とオオイヌノフグリとナズナとハコベのいきおいに押されている。
自然農のあり方だと、かなりいい土の様子。だけどこの組み合わせは、ウチの庭といっしょだ。どこまでその情報は正しいんだか。

やまんばはおもう。結局、だれにもわからない。方法論なんてない。だからこの世に数多くの農法があるけど、だれがやっても同じようにいっぱい作れる最終農法なんてものはない。食料だって、完全食なんてないじゃないか。方程式があるのは、算数ぐらいなもんじゃないか?この世に決まり事なんてほんとはないんじゃないか?



夕方になるとビールを一缶飲む。その時につまみで食べる野菜の漬け物やおひたしはチョーーーうまい。
すっごいばかばかしい発見だけど、野菜って、ものすごい種類の味がする。お肉や魚は、だいたい似たような味だ。だけど植物の野菜は、とんでもなく味のバリエーションが豊富だ。
キュウリや、ナスや、トマトや、キャベツや、大根や、枝豆や、ソラマメや、菜の花や、ラッキョウや、ルッコラや、バジルや、コリアンダーや、、、、、もう、ありとあらゆる野菜の味の振り幅は、すっごい!とおもわない?
全然違う!それぞれが強烈に個性が強い。

やまんばは、縁側に腰掛けて、お山をながめながらビールを飲む。
野菜を食べながら、
「凄いなあ。みんなそれぞれ全然違う味がする。しかもものすごい深い味だなあ。」
とひとり言を言う。そしてつまみにソーセージとか食べる。
「どれも似たよーな味だなあ。。。」
と思う。

目の前の杉山が、
「どーだ、すごいだろ」
と、言ってるよーな気がした。


2015年4月12日日曜日

『まるっとつくし展』展覧会のご案内





久しぶりに都心で個展を開きます!
場所は原宿。モスバーガーのポスターで有名な、ペーター佐藤さんのギャラリーでやります。一階と二階、どっちも使って展示します。

5月8日(金)〜5月13日(水)

メディアファクトリー新書シリーズ100点のうちいくつかをピックアップしたものと、デジタルの新しい作品、そして久しぶりに紙を使って切って貼った作品を展示します。
デジタルとアナログの共演です。それでタイトルが『まるっとつくし展』となっちゃったわけです(笑)。
今まさに制作真っ最中。はてさて、どんなものが出て来るか、乞うご期待!





銀ぶら。。じゃなく、原ぶらもかねて、お気軽におたちよりください!


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TEL.03-3475-4947

2015年4月11日土曜日

五感



忘れっぽくなっていた人が、いい香りのハーブをかいでいるうちに、忘れっぽさが消えていたとゆー話をどっかのブログで読んだ。

やまんばはそれを読んではっとする。
感覚だ。

絵描きに長生きが多いのは、そのどん欲さゆえに(笑)、感覚をフルに生かしているからではないか。におい、味、聴覚、視覚、触覚。この五感は鋭敏になればなるほど、感覚が研ぎすまされていく。
と、同時に思考が止まる。

山道を歩いている人々の中にも、山の景色をながめるというよりは、頭の中が思考でいっぱいのように見える人々もいる。近所を歩いているウツっぽい人たちも、頭の中がいっぱいなように見える。

現代人は、五感の中でもそのほとんどが、おもに視覚に重点が置かれて、その目に見える世界に対して判断をし、怒ったり、心配したりしている。感覚よりも、もっぱら思考の方に意識の重点が置かれている気がする。


私たちは、思考でこの世の問題を解決できると思っている。
思考はだます。
頭の中でああいえば、その真反対を誰かが言いはじめる。その真反対の言葉に、またその真反対の意見が言い返す。それをずっとくりかえしている。しかしそこから導き出される答えに創造性はない。

思考が止まった時、その向こうにあるものが現れてくる。自我のおしゃべりを聞き流している時、その向こうに「何かある」ことに気がつきはじめる。

そのきっかけを作ってくれているのが、この物質界にいるあいだに味わえる五感なんじゃないだろうか。皮肉なものだ。物質世界をじかに五感で味わえば味わうほど、その世界の向こう側があらわれてくる。




2015年4月6日月曜日

判断するとドラマがおこる



瞬間瞬間、起こることが起こっている。
人はその起こったことに対して「判断」をする。

判断その1:出来事への判断

その起こっていることに、「これはいいこと」「これは悪いこと」と判断をする。

するとそくざに、そのいい悪いの判断から導き出される、感情が自動的に起こってくる。

「イヤだ」
「なんだよ、あいつ。。」
「がまんできない」
「イラっとする」
「なんだか落ち込む」
「こわい。。」などなど。

かとおもうと、
「うわっ、うれしい!」
「キャー、信じらんない!」
「やったあーっ!」
「ああ、いいかんじ~」
「ほー、ほっこりするなあ」
「やべえ、うんめえ!」
「くーっ、さいこーっ!」
「ふ~っ、極楽、極楽~」などなど。

 

判断その2:感情に対する判断

後者の感情にたいして判断はおこらないが、前者には、確実に次の判断がやって来る。

この感情は悪いこと、と。

するとそくざに、その判断から、そこからの脱出計画が練られる。

「このヤバい状況をなんとかせねば。。」
「イヤだ、イヤだ、逃げたい。。。でもできない。。。」
「あの野郎をどうにかせねば、こっちがヤラレる」
「いかん、怒るな、オレ。切れるな、オレ。ここでガマンしないとあとでえらいめにあう。。。」
などなど。

人はいいと判断したことは引きずらないが、わるいと判断したことは、それが「解決」されるまで引きずる。

こーしてドラマが展開される。
渡る世間は鬼ばかりでないと、ドラマはあっという間に終わる。渡る世間が神ばかりだとつまんない。


だが、この「判断」は、その人のオリジナルのものじゃない。確実に外から教わったものだ。これはいいこと、これはいけないことと、小さいときから「判断しろ、そうじゃないと生きられないのだ」と要求され続けた結果、パブロフの犬のように自動的におこってくる働きだ。

そのドラマが苦しいと感じたら、自分に自動的におこって来る判断を疑え。
これは本当は正しいのか、これは本当はいけないことなのか。
ひょっとしたら、いいも悪いもないのではないか?

幸不幸を決めるのは、他でもない、この判断から来る。

いい悪いの判断が自分を苦しくさせる。その判断は時代によって、国によってまったく変わる。実は曖昧なものなのだ。その曖昧なものをだいじににぎって、自分や他人を責めつづける。


その幸不幸のドラマに飽きた人は、その出来事をただながめるようだ。
ワル役のあいつは、こっちの判断が作動しなくなったとたん、単に演技をしている人になる。こっちにちょっかいを出さなくなる。ただ目の前で演技をして去っていく。

起こることが起こる。
何の判断もせず、それをただ見ている。いや、たとえ判断が起こっても、それをダメだとも判断しない。判断している自分を、ただ見ている。
するとそれはやがて過ぎ去っていく。

目の前を出来事が起こり、去っていく。

それを味わっているだれかがいる。


2015年4月2日木曜日

大人は宙ぶらりんがガマンできない



「たくさんの宇宙があるかもしれないし、ないかもしれない。だけど確実なのは、自分が今ここにいるってことだ」
9才の男の子が宇宙を語るYOU TUBE。人類をアリに見立て持論を展開し、父親を圧倒する。

非常に心地いい。
そうだ。そうなのだ。彼は知ってる。
そしてやまんばもかつて知っていた。宇宙がどんなに大きくて、ニンゲンの今の脳でなんか考え切れないことを。

彼はいう。
「あるかもしれないし、ないかもしれない。それはだれにもわからない」
本当はこれが究極の答えなんじゃないだろうか。9才の彼はその答えをそのまま受け入れる。

大人になると、その答えは次第に消えていく。
そんな「わからない」なんてことは、言えなくなってくる。大人は「知っていなければならない」のだ。

ムリヤリ仮説を立てて継ぎ合わせ、矛盾したまんまその仮説を土台に新たな矛盾が展開されていく。その矛盾が吹き出した状態が、今の物質文明なのかもしれない。

「僕たちは理論は作れるけど、真実はわからないんだよ」
知らないということを知っている少年。



大人は宙ぶらりんな状態がガマンできない。
曖昧なままでいることができない。
早く答えを、確実な未来を、と保険をかけたり、安心できるものにすがる。

人生は刻一刻と変化している。
大人はその経験値から、こうなればこうなるだろうと予測する。そしてその先を憂う。そして策を練る。

やまんばは宙ぶらりんな状態がガマンできなかった。この不快なものをナントカ消し去ろうととしてもがいてきた。だけどそもそも安定ってあったのだろうか。安定なんて一瞬のもので、次の瞬間は、また別の不安材料を見つけ、あらたな安定を求めている自分がいた。

一瞬たりとも止まっていないこの宇宙。それ自体が存在なのだ。
小さい時は何かを知っていた。知らないことにワクワクした。今は知らないことが恥ずかしいことになった。忘れていたことを思い出した。




2015年4月1日水曜日

ルッコラとソラマメのほっぽらかし雑草化計画



去年の初夏、ルッコラの種を取った。
ふーふー吹いて、草やゴミと選り分けるのを庭でやった。
そしたらその秋、庭にルッコラが、ぼーぼーはえてきた。

今、ルッコラは雑草のように、庭の一部を占領し、白い花を咲かせて勢いづいている。こぼれ種で今年の秋も庭二世のルッコラが芽吹いてくれるかな。

そこはアサツキも野良化している。
ルッコラ、アサツキ、ハコベ、カラスノエンドウ、ヒメオドリコ草などのにぎやかな植生の中に、あれ?ソラマメが。

やはり去年種取りをした時の、出来損ないのはねた種もそこにほっぽらかしておいたのだ。まさかソラマメまではえてくるとはしらなんだ。
このソラマメも畑で何年か育ってスパルタで生きてきた種だから、こんなハードなところでも育つんだろうか。

これもほっぽらかして、この庭で雑草化してもらうことにしよう。