やまんばは、自分のへんなところに気がついた。
わし、ひょっとして自分を演出していない。。。?
まちがったことをしている自分
罪深い自分
失敗する自分
惨めになる自分。。。。
心はいつも「私何かまちがったこと、してね?」
と、自分が「まちがった行為」をしているアイテムをさがしているのだ。
心はいつも「なんか罪を犯してね?」
と、さがしているのだ。
心はいつも「とんでもない失敗をしでかしてんじゃないか?」
と、おろおろしている。
そんでその罪を犯した自分が、人々にいじめられて道ばたで転んで泥だらけになり、涙を流しながら、
「あ”、、あ”、、あ”だじっで。。。。。」
と、オヨヨと泣く姿を妄想しているのだ。(ここらあたりカオナシに近い)
ヘンタイか?
わし、ヘンタイか?
だから、そういう自分を味わえるよーに、そーゆー役者も配置する。
やまんばをいたぶってくれる役者を。
やまんばに罪を犯したよーに見せかけてくれる役者を。
やまんばをめいっぱい惨めにさせてくれる役者を!!!
(おんどりゃああああ~~~~っ!なめとんのかあーーっ!)
君、ばかじゃないの?
ところが、こーゆーヘンタイは、そこら中にいることを知る。
たとえば、いつもトラブルを抱えて戦っている人。
たとえば、いつもだれかにだまされて、怒りまくっている人。
たとえば、いつもやってくる上司が問題児ばかりな人。
たとえば、いつも悲しい物語を抱えている人。
みんなその中でドラマを演じている。
まさか自分が演出したとも知らずに。
やまんばもきのうまで、しーらなかった。
そりゃ、薄々は感づいていたよ、でもまさかここまでてってーてきに演出しているとは。。。
あきれちゃったよん。はずかしーやら。おかしーやら。
つまり自我が、自我を実感したいのだ。
自我さんはあほやから、一回味わったヘンタイ的な経験を「これって面白い!」って思っちゃったら最後、延々とやりつづける。気がつかない限り。徹底的に飽きない限り。
しかもネガティブなことが多い。それは問題定義をして、えんえんと問題に取り組んでいられるからだ。
しかもネガティブなことが多い。それは問題定義をして、えんえんと問題に取り組んでいられるからだ。
ポジティブだと「ああ~すてき」って、すぐ終わってしまうではないか!
だめよ~ん。だめだめ。ネガティブじゃなきゃ。
何か問題的なことが起こったとき、からだがぞわっ、とする。
その瞬間、「生きてる!」という実感がしないか?すると次は「これはたいへんなことがおこったぞ。なんとかしなければ。なんとか。うーん、どうしよう。。。」と、心はえんえんとそれに取り組める。
やまんばはそのとき、「あれ、、?」っておもったんだ。
これって、、、これってひょっとして、快楽?
スリリングはワクワクとほぼ同じではないのか。
わしはただ、そのスリリングを味わっているんじゃないかと。
小説もそうじゃないか。
最初っから最後までハッピーだと、ちっとも面白くない。苦悩やどろどろがうずまいてこそ、文学が極まる。そのヘンタイ的などろどろに読者は同調していっしょにバーチャルで味わっているではないか。
それをリアルに味わっているのだよ、ワトソン君。
じつにすばらしいじゃないか(笑)。
小説もそうじゃないか。
最初っから最後までハッピーだと、ちっとも面白くない。苦悩やどろどろがうずまいてこそ、文学が極まる。そのヘンタイ的などろどろに読者は同調していっしょにバーチャルで味わっているではないか。
それをリアルに味わっているのだよ、ワトソン君。
じつにすばらしいじゃないか(笑)。