2017年8月31日木曜日

「過保護のカホコ」がおもしろい


「過保護のカホコ」がおもしろい。

物語の構成もおもしろいが、なによりカホコが自分の感情を率直に見ている所がおもしろい。
番組で必ず「こんなのはじめて。。。。」というセリフ。自分の中に起こって来る感じたことのない感情を素直に見、素直に受けとめている。それがいわゆる、いい感情であれ、悪い感情であれ。

こう言う習慣が私たちについたら、この世はもっと生きやすくなる。

感情を見るということを小さいときから教えられて来ていたら、教育の中に取り入れられて来たら、この世はもっと違っているだろう。
うん。ぜひとりいれてほしい!



今、人はあまり自分の感情を見ないし、気がつかない。むしろ気がつきたくないほうかもしれない。先日も母とはなしをしていて、彼女は怒っている自分に気がついていなかった。

私たちの中には、悪い感情はもってはいけないという固い観念がある。そう教育されて来たのだから、その観念の壁をこわして行くのはけっこうたいへん。カホコのように、自分の中に起こってくる感情をそのまんま見るようなことはまれなことだ。
だけどそれはできる。


感情が起こり、それがネガティブなものだと判断された瞬間、人々のあたまの中は言葉だらけになる。
いけないことなのだから、それを消そう消そうとするのだ。消すために、言い訳を考えたり、感情を引き起こした相手の悪口を言って、自分の感情の正当化をする。
これは、言葉によって、自分の感情をごまかしているのだ。

悪いとされる感情を見ないようにする理由は、それが暴力につながるからだと判断されている。だが実際は、何もこわさなくても怒りは消える。むしろ何かをこわしたりしたほうが、怒りは消えないし、そのあとの罪悪感などで、もっと感情を引き起こしてややこしくさせる。

わき上がった感情には、必ず理由がある。意味もなくただわき上がりはしない。その直前に何かを見たり、何かを思いだしたりしたものに関係している。

自分の感情に気がついたとき、それに抵抗している自分、言葉だらけになっている自分に気がつこう。

それに気がついたら、目の前でやっていることをひとまず置いておいて、何もせずゆったりと座る。

目を閉じて、
「今どう感じてる?」
と自分に問うてみる。

頭はあいつがああだこうだと言い出すだろう。だけど
「それはいいから。今どんな感じ?からだは?」
と、意識をからだにむける。

意識は頭にばかり行くので、胸のあたりを意識するといいかもしれない。
私たちは、意識の比重をほとんど頭に向けている。すべてのことは頭で解決できると思っている。しかしそれはどうもちがうようだ。頭はろくなことを思いつかない。
頭がぐるぐるすることをほっておこう。

ただからだに向ける。
ただ感じるままを感じる。
何も抵抗しない。
エネルギーが動いているその感じをとらえてみよう。
聞こえる音を聴いていよう。
からだに空気が出入りするその感覚をとらえてみよう。
ほほをなでるわずかな風を感じてみよう。

その頃、あなたの心はもう感情の中にいない。
頭は忙しくしていない。
言葉にならない、なにかをかんじている。



そして、ふとやってくる「言葉」。
それは今まで考えにも浮かばなかった言葉。
あ、、、これだったんだ。。。
という気づき。

それは起こるこるかも知れないし、起こらないかも知れない。
そんなことはどっちでもいい。

静かな時間をもつ。
それが大事。
頭では解決できない。
頭では感情を抑えることは出来ない。
ただ、今そこにあるあなたをかんじて。

「Don't think! Feeeeeeeeeeeeeel!!」


2017年8月30日水曜日

最近の畑

無肥料で育てているウチの畑二代目のナス。種取り用二つ。

畑の野菜たち。

ナスは基本的に「肥料食い」と言われている。
いっぱい肥料が必要。
やまんばも春頃、肥料で育てられたナスの苗を買って肥料なしで育てるも、やっぱりウチの畑でナスはほとんどできない。

一昨年、無肥料栽培で育てられた関野さんの種を細々と育て、やっと一個だけ育てて種取りをした。

今年の春、その種を無肥料で苗を育て畑に入れた。成長は遅かったが、今になってナスがけっこう育ちはじめた。畑二代目のナスは、この畑を知っている。

今、種取り用のナスを育てている。かなり大きい。うまく種とり出来て三代目になれば、もっとこの畑になじんでくれるだろう。



ウチで取った白菜の種の双葉。コオロギに食べられないようにネットをかけている。
購入した白菜の種は、この暑さでさっぱり芽が出ない。

それから白菜。
白菜も無肥料で結球させるのが難しい。だけど無肥料だと虫もつかず、結球するまでもって行きたいところだ。

春、他のアブラナ科の植物と交配しないように、ネットをかけた白菜の種を取った。
同じ日に、ウチの畑でとった白菜の種と、買った白菜の種を蒔く。
やはり買った白菜の種はこの暑さで芽がでない。しかし一度ここで花を咲かせた種は、何かを知っているらしい。しっかり芽が出た。




ダイコンも同じ。購入した種より、この畑でとれた種のほうが、発芽のいきおいが違う。
種は記憶するのだろうな。
「これこれ!知ってる!この土!」
って。
元気に育ってくれるかなあ〜。


数値は手ごわい


先日、タクさんにこのブログを紹介していただいたとたん、ページビューが970に跳ね上がり(ふだん5、60個)、はなぢがでた。

次の日340になり、次の次の日130になり、今は100前後に落ち着いた。
なのに970個と比べて、少ないやんけ!とゼータクをいう、
数字に弱いやまんばです。(タクさん風)

いやはや、人は数字に弱いもんです。数字。てごわいですなあ~。
売り上げしかり、血圧計しかり。てごわいですなあ~。
数値がすべて!数値が神さま!この数値さえ下げれば!この数値さえ上げれば!
と、世の中は数値信仰まっさかり。


きのうもダンナとそんな話しをした。
「お前のブログ、100だろ?おれは10だぞ!(ここで本人少し恥ずかしがる)おまえ、おれの10倍だぞ!そんだけ人が見てくれてんだぞ!」

やまんばは、この部屋に100人の人がいるのを想像した。
「ひえっ!100人ってスゴイ量じゃん!」
「だろ!?ゼータク言ってんじゃねえよ」

世の中には、4ケタだの5ケタだの6ケタだのとフォローされている人々がいるが、やまんばの100は、じっくり見て下さっている方々に支えられているんだなあ~としみじみした。


人数と言えば、2年前からやりはじめた教室。生徒さん二人。やりはじめたとき、「あ、先生むいてない」と感じた。しかしまじめに通ってくれている。やめるわけにはいかないかんじ。

人数じゃない、数値じゃない。
この忙しい時代に、教室に、このブログに、わざわざ来てくれて、一緒に私の世界感を味わってくれている人がいる。

そのありがたさを昔は味わえなかった。
「自分はそんなえらそうな人間じゃない、自分はそんな価値のある人間じゃない、、」と、受け入れてくれていることを、受け取れなかった。

今は心を見、感情を味わううちに、自分と言うものの味わいを知りはじめる。はずかしいけど、ありがたい。


忙しい世の中、数値さえあわせればいい的な考えで、もの凄いいきおいで消化していく情報社会。

この数値、意味ある?
意味ない?



2017年8月27日日曜日

真空


やまんばは、ときどき、予知めいたことが起こる。
予知といってもたいしたことはない。

あ、これ決まる。。。
あ、これゲットする。。。
あ、これ決まらない。。。
などなど、日常的なシーンで、先読みできる瞬間がある。

その時の状態は、一種独特のものがある。
真空。。。と言うか、ゼロポイントというか、ニュートラルというか、自分という存在が、固形化したいつもの状態じゃなくて、どこにもいないかのような、不思議な感覚の中にいる。
視点は、目の前にあるものにフォーカスされてなくて、360度見ているようなかんじ。
そんな真空のスポットにはまったとき、次に起こることが「見える」。

このある種便利な状態は、ふいに起こるので、前もって準備できないのが残念。
でもできない理由なら分る。それは欲があるときだ。

これをゲットしたい、という自我が動くと、もうその欲にフォーカスされちゃって、予知もしっちゃかめっちゃかになる(笑)。
でもその状態が普段の私たちなんじゃないだろうか。
いつも意識は、目の前の何かにフォーカスされていて、それをゲットするぞ。それをやるぞ。と、ふんばっている私たち。

真空の状態にある時には、何かをゲットするぞなんてかんがえてもいない。どっちでもいい。どうなろうといい。というか、どうもこうもない。。ってかんじ。

老子のいう無為自然とは、そんなことなのかなあ。。。


2017年8月26日土曜日

行こうか、行くまいか。


迷うことがあると、あっちかな?こっちかな?え~~、どっちい~~~?
なーんて、おろおろうろうろする。

そんなとき、スピリチュアリストの雲黒斉さんが「雲さん」に聞いたときの言葉をおもいだす。
「どっちも一緒」

そんなとき、自然農の川口さんの言葉を思いだす。
「迷ったときは、そのままにしておけ」

どっちの言葉もなんだかほっとさせてくれる。

迷ってるときは、「正解」を出そうとあせる。これまでの人生、あせって決めるとろくなことがなかった。

だから、迷ったり、焦ったりしたときは、意図的にその場に佇むようになった。
じっとして動かない。動こうという衝動を、ただ見る。
マインドが「今ここにぼーっとしてたら、ろくなことがないぞ!動け!早くなんとかするのだ!」
と、脅してくるのをただ聞いている。

二つに分かれた道を、どっちを選ぼうと、行くところに行く。
二つしかないと思っているのは、マインドのしわざ。
二つ以外に、可能性はいくらでもある。
どっちも選ばず、ほったらかしにしておくと、勝手に事は進む。

そんなことを、日々の生活や、畑で学んでる。

さて。今日は雨が降る予定。西から雲が迫ってる。洗濯物は干してある。

畑に行こうか行くまいか。


究極の選択(笑)。


2017年8月24日木曜日

スピと非二元のちがい




スピリチュアルと、非二元がごっちゃになってる感がある。
じつはこの二つは一緒じゃないとおもうんだな。

起こる出来事を、「これはいいこと。それは悪いこと」という風に、二つに分けて、そのうちの悪いことをできるだけ避けようと、あの手この手を使って対処するのが、スピリチュアル。

起こる出来事は、勝手に起こるもんだから、避けるも何もない。いい、悪いという解釈がない。起こるに任せる、消えるに任せる。以上!ってのが、非二元、なんじゃないだろうかと、やまんばはおもう。



起こってくる出来事に、いいことと、悪いこと、という解釈をくわえる事によって、それがドラマ/物語を生み出す。


雨が降る。
これは現象として雨が降っているだけなんだが、そこに状況によっての判断があると、ことは変わってくる。
カラカラ天気のあとの雨はよろこばれるが、盆踊りで雨が降るといやがられる。
しかしこれも人それぞれの状況によって、判断が違う。

畑をやる人にとっては実りの雨。
盆踊りをする人にとってはやっかいな雨。

どっちもやってるやまんばは、どう解釈すればいーのだ???(笑)

畑をやる人は、雨乞いの祈りをし、盆おどりの人は、雨が上がる祈りをする。

これはスピリチュアルも同じ。来てほしくないことは、暦を読んだり、パワーストーンを持ったり、それを避ける言葉を唱えたり、浄化して避けようとする。
うまくいけばよろこび、思ったようにいかないと、苦しむ。
そういうドラマが繰り広げられる。


もしこれに、何の解釈も入れなかったらどーなる?
雨が降る。
「。。。。。」
以上!

ここには何のドラマもない。
雨が降ることに葛藤がないので、ドラマが始まらない(笑)。


非二元は、この葛藤が人々を苦しませていること、その葛藤にはきりがないこと、いくら満足を得ようと頑張っても、それは永遠には得られないということを教えてくれている。




ここへ視点を移動させていくことは、けっこうむずかしいかもしれない。
だって今まで「問題」を見つけ、「熟考」し、「解決」を見出してくることを教わり続け、それと奮闘することで、ドラマをつくり出し、そのドラマの中でこそ、自分が生きている!という実感を得て来たのだもの。


だがじっくりその現象に取り組んでいると、どこかにほころびをみつけはじめる。

スピリチュアルは、ドラマを続行させてくれる。
非二元は、ドラマの外に出る。

どっちをえらぶかは、あなたしだい。



「東京消える生き物増える生き物」/MF新書表紙イラスト
タカは新宿の高層ビル群を森として生きる。

2017年8月23日水曜日

今が気に入らない


「わたしは、今が気に入らないんだ。。」

今じゃなく、今ここにいるところじゃなく、今ある心持ちじゃなく、どこかに、次に次に行こうとする自分の衝動に気づいてはっとした。

コーヒーを飲んで「あ~、美味しい。。」という解放感は、そうは長く続かない。心は自動的に次に向かっている。
「えーと、これのあとはあれやって、それやって、と。。ああ。こうやってのんびりしている暇はないぞ。さっさと飲み終えて、やることやらなきゃ。。。!」と。
こうして解放感は一瞬で終る。

畑で草刈りをしていてもそうだ。なぜかあせっている。早く早く早く草刈りを終えなきゃ!と。
ちゃりんここいで家に帰るときもそうだ。早く家に着かなきゃ!と。必死こいて家にたどり着いたら、今度は早くシャワーを浴びなきゃ!になり、早く乾かさなきゃ!になり、心は次の行動に向かっている。

とにかくじっとしていられない。いったいどこに向かっているのだ?

どこかで安堵したがっているのは分る。安住の地、安住の場所、安住の心持ち。。。
しかしやってもやってもその次を求めているこの心は何だ!?
と、思った時、
あ。。。あたし、今が気に入らないんだ。。。と、気がついた。

自我は、今を受け入れることができない。今にいられない。
サルのようにあっちの木、こっちの木に飛び移って、まったく落ち着くことがない。

きのうも畑で草を刈りながら、どこかで焦っている自分を発見する。
焦った所で、どうなるというのだ?少し早く草を刈った所で、なにがある?
そう自分に言い聞かせてみても、自我は納得はしないだろう。
だが、焦ることで手を切るかも知れない。



ゆっくり、ゆっくりと意図的に草を刈っていく。
先走ろうとする心を、ただながめる。



2017年8月20日日曜日

自分へのイメージ/土塊と口うるさい女の子


やまんばの中に、自分へのあるイメージがあった。

二つの存在。
ひとつは、顔のないジャミラみたいなおおきな土のかたまり。
もうひとつは、赤いスカートをはいた女の子。

「私」は、土のかたまりのほう。
女の子は「私」の先生、物知り、指導者、ご意見番的な存在。


自分は土のかたまりでできたでくのぼう。なーんもできない存在。目も口も鼻もなくて、ただぼーっと佇んでいるだけの存在。

その存在の肩に座っている女の子は、赤いつりスカートをはき、赤い靴を履き、目は大きくちょっとつり上がっている。ムーミンに出て来るミーみたいな、口うるさい存在。

彼女はこの世のルールをよく知っていて、このでくのぼうに、ああしろ、こうしろ、あれじゃダメだ、これもダメだ、だいたいあんたはねえ~、といい、あげくの果てに、この能無し!と言い放つ。

でくのぼうの私は、その子の言うことをよく聞いた。そうじゃないと、この世についていかれないからだ。そうやっていつもその女の子に意見を聞き、お伺いを立てながら、ビクビクと生きて来た。

そう、そうやってずーっと、大人になってもその子の言うことを聞きつづけた。

ある日、その子の言うことが矛盾していることに気がつく。
AをBにしろ、というので、Bにしたら、今度はAにしろという。。。
おかしいな。。。とおもいはじめる。
その子の言葉は私にとって絶対だった。その声を聞くことが、この世を生きる術なのだと。しかしそのとき、それはほんとに、そう。。。?と。




そして、いろんな本を読んでいくうちに、その女の子は、私のマインド、思考そのものだったことに気づく。
そしてその土塊でできたでくのぼうは、その女の子(つまりマインド)が作りあげたイメージだったのだ。

本当の私は、土で固められた身動きの取れない何もできない小さな存在でもなく、限定された収縮した存在でもなく、どこにもない、そしてどこにでも偏在している存在であった。



この世に生まれて来て、やまんばは、その女の子を必要としたのだろう。
この世でしっかり頑張って生きなきゃダメなのよ!そのためのルールを教えてあげる!と教える側と、それを教えてもらう側の、コインのウラと表を作りあげたのだ。

それにずーーっと振り回され続けて来た。
その女の子の存在に。その言葉に。その怒りに。その葛藤に。。。


今は、その子はかわいい存在となった。
以前は大きな声で訴えて来たが、今はたまに耳元で囁く程度。それもただ聞いているだけで、やがて消えていく。
でくのぼうだと思っていた土塊も、いつのまにか消えている。

それをイメージとしてこの世に表してみた。
なんかふしぎな感覚。






2017年8月15日火曜日

雨が降る理由


そぼ降る雨の中、盆踊り会場でだれかがつぶやく。
「雨、やまないねえ。。オレ、なんか悪いことしたかなあ~。。?」

それに反応して、横にいた人が答える。
「まったく!何も悪いことしてないのに、なんで雨ばっかり降るの!?」

するとそれを聞いていた親分が、
「イヤイヤ。きっと誰かが、なーんか悪いことしてるんだよ。。」
と、にやりとした。
一同が納得をする。



やまんばはそれを聞いてにやりとする。
雨が降ることと、悪いことすることは、なんもかんけーないのに、心はそれを結びつけちゃう。

1:盆踊りをするのに雨が降ること=悪いこと
2:悪い事が起こる=バチが当たった
3:バチが当たる理由=悪いことをしたから

↑あたまの中がこーゆー構図になっている。

するとあたまの中は、ひとり劇場が始まる。
「悪いこと、よくないこと、、、なんかあったっけ?
ああ、そうだ。あのとき私があれをしたから、あれがよくなかったのかな?
それで今日お祭りなのに、雨がふるって言うバチが当たったのかな?
イヤイヤ。なんであたしだけが悪いのよ。だいたいあいつがあんなこと言うから、ムカついただけよ!それにしっぺ返ししただけじゃないの!なんで神さまはこうもわたしにいじわるなの!?」
雨は降り続けるわ、あたまの中はムカつくわ、もう、イヤイヤ状態が炸裂~~~っ!



別に雨が降ることに、いいも悪いもない。
人は勝手ないきもんで、雨が降らないと文句を言い、雨が降ると文句を言う。
やまんばも畑に雨が降らないと、降ってくれないかなあ~と願い、降り続けると、もういいよ~と、文句をたれる。

「人はおこる出来事に原因を探す」
これは先日お会いしたタクさんの言葉。

「タクさんレンタル企画」で、高尾山のふもとにまでわざわざお越し頂いたのだ。むずかしー非二元のお話を、軽いタッチで笑わせながら、新たな方向から気づかせていくブログを毎日お書きになる。やっぱり難しいんだけど、何だか後からじんわり来る、不思議なブログ。やまんばは毎日読ませていただいている。どんなお方かドキドキして待っていたが、実際お会いすると、笑うと口元にちらっとえくぼが見える素敵な方だった。


まさに人は雨が降るという単なる出来事に、原因を探している。
なんで雨が降るのだ?と。

これ、状況が違うと原因なんか探さない。

待ちに待った雨が畑に降ると、「なんで雨が降るのだ?」とはおもわない。
「わーい、降った降ったあーーーっ!」と、よろこんでおしまいw
たまに「なんで雨が降ったのだ?そうか。私の日頃の行いが良かったのだ!」とか言っちゃうけどw

そんなもんで、人は出来事に対して文句があるほどに、その原因を探し求める。
それは生存本能が、悪いことを回避しようとすることから起こっているのだろうが、そもそも生死に関わる出来事など日常ほとんどない。雨が降ることは、死にいたる話ではないにもかかわらず、風が吹けば桶屋が儲かる的な発想で、すべてを深刻にとらえるため、思考は必死でその原因を探す。原因さえつかめば、もう悪い状況はやって来ないのだ!と、架空の安心を求める。

こーして「悪いことをしなければ、雨が降らない」という法則を作り上げるのだ。(ややこしーなーもう)

やまんばは、人が作る勝手な法則のしっぽをつかんじゃったので、おこる出来事に反応しなくなって来た。

雨が降った。
ですよね~。で、ハイ終わり。



追伸:

タクさんの今日のブログは、まさにそういうことを指し示している。
人は起こった出来事に自分を参加させようとしているんじゃないだろうか。
なにがなんでも法則を見出すのは、そこに自分がいる!という実感をほしがっている。
それはほっといたら、すーっと消えていく自分というものを、だめだめだめ!って、グッとつかんではなさないってことじゃね?
わしらは必死で「自分」であろうとしているんかもね。



「桶狭間は晴れ、のち豪雨でしょう」MF新書/表紙イラスト

2017年8月14日月曜日

響きとしてのご神事

お祭りあとのほこら

町内会の(といってもほとんど「村」)夏のご神事がやって来た。

午前中は村にある若宮八幡宮のちいさなほこらをお祭りする。お米や、ダイコン、鏡餅、鯛、お神酒などの供物や榊を捧げ、神主さんを呼んで祝詞をあげてもらう。

小さな石でできた素朴なほこらは、しめ縄とシデも新たに、年に二度ういういしい姿になる。夏のご神事と新年のご神事だ。

神社入り口

一度日本を離れて日本の美しさを知ったわたしにとって、この小さなほこらは宝石のように輝いてみえる。

そのむかし神道に凝ったことがあって、しきたりのひとつひとつの意味を知り、感銘を受けたものだった。時がたって宗教的マイブームは去り、一時的にご神事にも行かなくなった。
しかし再び足を運ぶようになった今、むかしとは違う受け取り方をしている。

むかしは祝詞の言葉の意味を求めていたが、今は音そのものを楽しむ。
神主さんが発する「おおおおおお~~~~~~」という音の響き。
祝詞の言葉の、太古のにおいがする響き。
さーっ、さーっ、と、榊でお祓いをする音。
ときどきほこらの後ろを通り抜ける電車の音。
蝉の声。
人々の存在する音。

樹々が、山が、聞き耳を立てて、そのすべての音を聴いている。空気が振動する。

ほこらから見える風景。高尾山の山並み

色を楽しむ。樹々の緑。しでの白。大地や幹の茶色。神主さんの鮮やかな衣装。水色、黄緑、濃い紫。真っ白い足袋。紫の鼻緒。

感覚を味わう。むっとする湿度。ふいにふく風。

その瞬間に私は同調する。それを全身で味わう。
村の人々がそこにいるのに、いないかのように静まり返り、その一瞬の中に人々は溶ける。

神道という形は、日本人の存在にピッタリ来る。
そこには人間対神でも、上下関係でもない、自然も人間も神も、そのすべてが一体となる瞬間を演出しているかのよう。。。。


「本日は、おめでとうございます」

ご神事が終わり、神主さんの最後の一言で、村の人たちは各々の意識にもどっていった。


2017年8月10日木曜日

「これ」っていったいなんや。



「これがあるだけ。」

なんのこっちゃ。

今目の前にある、パソコン、扇風機、目の前に見える世界。
これしかない。とのこと。

外から聞こえる鳥の声。じつはそこに鳥がいるわけではなく、鳥かどーかも分らん音が「聞こえている」だけ。

パソコンって言う物質があるんじゃなくて、パソコンのよーに見える映像があるのを見ている、、、、じゃなくて、網膜に写っているものを見ている。

ほんとは「見ている」のかどーかもわからん。
ほんとは耳に聞こえているのかもわからんし、キーボードを叩いているよーな気になっているだけなんかもしれん。

そーなると、だいたい他人とゆーもんはいるんか?
単なる網膜に写っているもんを「見ている」だけなんちゃうか?

と、ゆーよーなことをいってるのか?「これ」って。

しかもそれに原因と結果などというよーなものもなく、ただ刻一刻と変化している映像なり音なりを、勝手に解釈して、これがそーなったら、あーなる、とゆーふーに、「わたし」が作りあげて(妄想して)いるだけなんか?


なにもせずに、ただぼーっとしている。
なのにどんどん目の前の映像は変化して行く。
それに参加しなきゃ!と思うと、思わないとに係わらず、勝手にどんどん変化する。

「これ」っていったいなんや。
「わたし」っていったいなんや。


「腹だけ痩せる技術」MF新書/表紙イラスト





2017年8月6日日曜日

最近の和紙の作品たち



「飛び石」
和紙、水彩、オイルパステル、色鉛筆
いつもながめている庭に飛び石がある。
夏の午後、その石をテーブルにして、コーヒーやビールを飲む時間が好きだ。
草たちが自身の姿を誇るように、石の上をはう。
一瞬、飛び石が舞台になり、草たちがその上で踊っているようにみえた。





「紫色の木」
和紙、水彩、オイルパステル、色鉛筆
アスファルトの道から、一歩森の中に入ると、
すっと涼しい風がほほをなでる。
杉林に入ると、また一段と温度が下がる。
その青い空気感を作品に。




「ホタルブクロとドクダミ」
和紙、オイルパステル、水彩、色鉛筆
どちらも地味で花屋の店先にはけして並ばない花。
だけどすごく個性的。
野の花には、こういう個性的なものが多い。
それを和紙で挑戦してみる。
和紙は何でも味わい深くする。




「ドクダミ」
和紙、水彩、オイルパステル、色鉛筆
我が家の玄関口に今年はいっぱい咲いたドクダミの花。
名前だけ聞くと、ドキッとするような響きだが、
この花をひそかに愛する人は多い。
葉っぱといい、花といい、すべてはキュンとするようなカタチをしている。
しかしいったん手に取ると、独特のにおいが。。。
このコントラストを表現してみたかった。







「夏」
和紙、水彩、オイルパステル、色鉛筆
和紙はいろんな表情を見せる。
強烈に薄い和紙、強烈に分厚い和紙、
透明で、不透明で、その表現は縦横無尽。
私はそれをカッターで切り、ちぎり、その効果をためす。




「春」
和紙、洋紙、オイルパステル
一本の木で春を表現できないかとおもった。
架空の木。山が笑ふように、木もまた笑ふ。




「針葉樹」
和紙、洋紙、オイルパステル、水彩
家の前には、スギとヒノキの林がある。
針葉樹はどこかつっけんどんだけど、
心の中はあったかい、だれかさんのよう。
それをイメージしながら、思うがままに色を置いてみた。





2017年8月3日木曜日

感情を見る2


怒っている自分に気がつくと、私はその場で静かに自分を観照する。仕事をしている時はその仕事をしている最中に、手が空けられる時は椅子に座って静かにみる。

「今、どんな感じ?」
と自分に聞く。
「今、どんな感じが身体にある?」

頭のエアー演説には耳を傾けない。言葉に解決法は見出せないからだ。むしろ頭を通さないほうが、なぜか解決されて行く。身体の感覚に焦点を当てると、自然と言葉が消えていく。全身で自分の怒りを見るのだ。

一番最初に意識化された「怒りおどり」はここに書いた。

怒りの感情を全面的に受容することで、それが溶解して行く経験をしたあと、その現象が面白くなって、自分がネガティブな感情になるたびに、それを見るという実験を繰り返した。

そういう過程で、自分がどうして感情的になっているのか、どんな観念が元になっているのかが明確になって行く。自分がわけもなくそわそわしたり、何かに突き動かされるようにして動くその衝動も、理解とともに消えはじめる。そして一回そのことを理解すると、もうその同じ状況で同じ感情はあらわれにくくなる。何かが消化されているようなのだ。

最初ははっきりとした感情、今の日常生活の中で味わう感情。しかしそれがだんだんと、幼児期のころの感情を呼び起こしはじめた。幼いころ味わった哀しみや苦しみや怒り。ずっと押し入れの奥深くに隠しておいたのだろう。それが出始める。

正直いってこれが一番きつい。
この世に生まれて間もなく知る、無慈悲なまでの人間界のルールや出来事。それに出くわした時の、心の整理など自分でできるわけもなく、ましてやそれに気がつく親もそうはいない。何のフォローもないまま、「それはそういうものだ。。」と、いい聞かせながら、子供は成長し、その押し殺された感情は、深い深い井戸の底に置いておかれる。
それがだんだん浮上してくるのだ。

だがそれも受け取られはじめる。
ただ見るということが、何かを動かし、何かを整理し、何かに変容して行く。たったこれだけのことが、いかにすごい叡智なのか。。。私たちが作った「言葉」などではけして解決などできないのだと実感する。

やがて意味のわからない怒りがやってきたとき、これは人類がもつ集合的な怒りの塊なのではないか?とさえおもった。

そしてだんだんと繊細な感情の領域に入って行く。
これは何?このむずむずざわざわした感情は何?怒りなの?哀しみなの?一体何?という感情の領域に入りはじめる。
それでもそれを味わうことをつづけている。


その先に何があるのかはわからない。しかし自分が穏やかになって行くのに気がつく。
あれもこれも気になっていたものが、気にならなくなって行く。
自分の中に何かでパンパンに埋まっていたものが、すかんすかんになっていく。

私という個別の存在が、そこらへんにあるものと、まざっていく。
自分というからだは、はっきりとした輪郭を持つ個としての物質というよりは、イワシの大群みたいな、あいまいなものになっていく。


これ、どこかで感じてたもの。。。
そうや。。子供のころの感覚や。。。