展覧会が始まる前から、ある文言をずっと唱えていた。
「神の救済計画だけがうまくいく」
コースを学んでいる人たちにはおなじみの言葉だ。
今の私にはそれがぐっと突き刺さる。
私たちはこうなれば私は救われるという考えのもとに行動をする。
絵が売れれば私は救われる、
床にこぼした撥水剤が跡形もなく消えてくれれば私は救われる、
あの人が変わってくれれば私は救われる、
この痛みが消えてくれれば私は救われる、
もっといい仕事に就けば救われる、、、
だがたとえ絵が売れても一瞬ホッとするだけで、
また次いつ売れるんだろうと考える。
こうやって私たちはずっと、
「こうなってくれれば私は救われる」と考え続けている。
これが「自我の救済計画」だ。
この世界の中で、ああなったり、こうなったりしてくれることを願う救済計画。
延々と続く願い続ける救済計画。
馬の前に人参ぶら下げて延々と走り続ける救済計画。
それはいつか救われるから!と探し続けることで心が救われている、みたいな。
または努力し続けることで心の保障を買う、みたいな。
それが自我の救済計画。
これきりがないじゃないかと思い始める。
それでも心は動く。
「絵、買ってくれないかな。。?」(笑)
神の救済計画はうまくいくらしい。
神の救済計画って何?
さあ~?
私が思うに、この世の中にその答えはないのだ。
現象界が変化して救われるわけではないのだ。
そんなものをはるかに越えたところで私たちはすでに救われている、
ということを思い出すのだろう。
神よ、私が何をすることをお望みですか?
私がどこへいくことをお望みですか?
私が誰に何を伝えることをお望みですか?
救いとはなんですか?
そう心の中で問い続ける。
来場してくれた人たちと話す。
初めて会う人も多い。
そんな中で互いの会話の中に喜びを見出す。
来て良かったと言われる。
話せて良かったと言われる。
私の口からヒントをもらう人もいる。
一期一会、袖振り合う瞬間、そこに宝石がある。
物理的に何も変化がなくとも、そこに何かが広がる。
喜びに満ちる。
すでに持っていたものを思い出す。
物理的なものは渡せば減る。
絵は渡せばお金と交換される。
取り引き。それで終わり。
でも心は。
心は互いが喜び合って広がる。
渡せば減るどころか、増える。
渡せば渡すほどどんどん増える。
もともと持っていたものが扉を開く。
これが神の救済計画。



