「心はコトバである」
谷口雅春さんの言葉だ。
昨日ポストに小冊子が入っていた。ぱらぱらめくるとその言葉が目に入った。
まさに、心の中は言葉でうめつくされている。感情の高ぶりも言葉でおおわれている。ほんなら、コドバを知らなかった赤ん坊の頃は言葉を知らないので、心がなかったんだろうか。いや、おなかすいたとか、かなしいとかさびしいとかあった。心の動揺があった、だから心はあった。とおもう。
しかしそのおなかすいたとか、寂しいとかという感情の高ぶりも、やはり言葉だ。はじめに動揺がある。それに「これはおなかすいたという種類だ」とか「これはかなしいという種類だ」とか「これは怒っているのだ」と感情の高ぶりに分別を与えたのはニンゲンが言葉を持ったからだ。
もし、人間が言葉を持たなかったなら、その人間は、ここまで心の中が言葉で埋め尽くされていたのだろうか。いや、言葉がないので、ただ動揺だけがある。
しかしその動揺は、ここまで私たちの中を始終埋めつくしていたのだろうか。
2011年12月31日土曜日
2011年12月27日火曜日
夢
昨日夢を見た。
ダンナが私にコンタクトレンズを買ってくれるというんで、店にいった。なぜか黒人のお姉ちゃんが店員さんだった。
最初に試したのは、入れると目の中がごわごわしてイヤな感じだった。でも次のヤツは、目の中に抵抗もなく、よく見えた。でもいつのまにかコンタクトが口の中から勝手にでてくる。入れてもまた口からでてくる。
「ねえねえ、これ、口からでてくるよ。いーの?口からでてくるんでいーの?」
と聞くが、店員さんとダンナはそれには応えず、
「じゃ、それをください」といった。
私はコンタクトは目から入れて、出す時は口から出すもんなんだなと納得した。
夢、おしまい。
ちなみに、それまで裸眼だった私はよくしらないんですが、コンタクトは口から出すもんなんですか?
ダンナが私にコンタクトレンズを買ってくれるというんで、店にいった。なぜか黒人のお姉ちゃんが店員さんだった。
最初に試したのは、入れると目の中がごわごわしてイヤな感じだった。でも次のヤツは、目の中に抵抗もなく、よく見えた。でもいつのまにかコンタクトが口の中から勝手にでてくる。入れてもまた口からでてくる。
「ねえねえ、これ、口からでてくるよ。いーの?口からでてくるんでいーの?」
と聞くが、店員さんとダンナはそれには応えず、
「じゃ、それをください」といった。
私はコンタクトは目から入れて、出す時は口から出すもんなんだなと納得した。
夢、おしまい。
ちなみに、それまで裸眼だった私はよくしらないんですが、コンタクトは口から出すもんなんですか?
2011年12月26日月曜日
自分の過去にひたらないのだ
昨日、過去を捨てた。(えらいおーぎょーやなあ)
自他ともに認める世界一怠惰なやまんば。
NYから日本に戻ってからやった約8年間の仕事。これらの資料や、先方さんとのやり取りの手紙や、自分が描いたラフのスケッチなど、てんこもりに残っていた。かっこよく「過去は振り返らない」とかいーながら、要するに机の下につっこんで「なかったことに」してきた。
自分の過去はなかなか捨てられない。
仕事の度に「う〜ん、う〜ん」といいながら、アイディアの産みの苦しみをへて出てきたかわいい私のラフたち。
「ああ、このときのこのアイディアは良かったよなあ。これ、何かほかのアイディアに使える。うん、きっと使える。とっとこー」
といいつつ、そのまま山積み。ふりかえってみれば、一度もその山をほっくりかえして眺めた事はない。どっかで聞いた事があるよなあ、これ。「いつかは着るかも知れないから取っとこー」といって1年半袖を通さなかったものは着ない。というヤツと似ている。
アイディアをとっとこーとするその心理は、「このアイディアはもうでて来ないかもしれないから、念のため残しておく」という心理的保証を意味する。だがそれって、後ろに「ひょっとしたらアイディアは湯水のように湧かないかも。。。」とおもっているのだ。
なぜ?
湯水のように湧かなくさせているのはだれじゃ。
自分だろ。なぜ湧かない?年がいくから?体力なくなるから?老眼になったから?
脳みそが堅くなってくると思い込んでいるのは私だ。こんなもの誰も証明できない。それが確実かどうかも分らない。
だが過去を残しておけばおくほど、それは机の下にたまっていく。それを「過去の勲章」のように取っておくほうがよっぽど脳みそが堅くなっていくんじゃなかろうか。
机の上はすっきりと広々した方がいい(あんたがいえるんか)。頭の中もすっきり広々した方がいい。スペースがあると、あとからあとからまた何か別のものが入ってくる余裕がある。すると過去に思いつかなかったアイディアがやってくるかもしんないじゃん。
そう思って捨てる事にした。中には、NY時代に私の絵や絵本を評価してくれた雑誌の記事のコピーまである。思い出にひたるにはちょうどいいアイテムだ。「ああ、わたしってすてき。。。。」と。だがそれも捨てた。
そんなものにはひたらないのだ。ひたるのは自分の未知の世界なのだ。やまんばがまだ知らないやまんばの、未知なる部分への挑戦のために捨てるのだ。
絵:『江戸めしのすすめ』MF新書表紙イラスト
過去にひたってる?いんや、温故知新なのだ。
2011年12月18日日曜日
たんじゅん農法は挑む
私がたんじゅん農法が好きになった理由は、挑むからだ。
山の木や植物はいったいどんな理由であのように大きくなったり豊かにはびこったりするのだろうか。小さなニンゲンが作り出した自然のミニチュアのような畑の中で、その理を見つけ出していく農法であることだからだ。
それまでやっていた自然農は、自然は偉大なものだから、自然にやさしく、自然を怒らせないように、自然の育つままに任せよう、という考えが元になっている。基本的に慣行農法よりも小さく育つ。その理由は肥料であんなに大きく育てられる事自体が不自然なものだからである。本来はあのぐらいの大きさなのである。という考えに基づく。
一見「自然にやさしい」農法であるが、その後ろに「自然はこわい」という心理がコインの裏側にひそんでいる気がする。自然は理解しがたく恐ろしいものだから、自然がやりたいようにやっていただく。私たちニンゲンはそのおこぼれをいただく、というようなどこか悲観的な気分にさせられる。
創始者の川口さんの本を読むと「本来の姿に戻してやればいい」とか「種を降ろしてやる」とか「大切な全体の姿を悟り取られて下さい」いう言葉があちらこちらにでてくる。その言葉を読むたびに、やさしく言い回しながら、なんだかおごった言葉だなあとおもう。
私が草ぼうぼう畑にしたのは、福岡正信さんの本に衝撃を受けたからだった。もし最初に川口さんの本に出会っていたら、きっと畑はやらなかったに違いない。だが福岡さんの本に出会ってしまった。すごいとおもってしまった。どころがいざやろうとすると、「無から始まって無が終着点となる」という彼の本は哲学的すぎて、どーにもこーにもやりようがない。粘土団子を作ってみてもうんともすんともらちがあかない。そりゃそうだ。彼の理想とする畑の姿は、後ろの山の上から木を変えていかねばならないのだ。ムリ。だからハウツーを教えてくれる自然農にした。
やっているうちに、土は掘り起こしてはいけない、耕してはいけない、とやってはいけないことが色々ある。ちょちょっとニンゲンが手を加え、ただ自然が畑を作ってくれるのを待つのである。そして小さめの野菜が育つ。うんうん、それでいーのだ、それで。。。
だが、あの福岡さんの畑で育っていた写真で見たあの超巨大なカブや超巨大な大根はなんなのだ?福岡さんがわしらに見せてくれたたわわに実った稲はなぜなのだ?あれは野菜の可能性を見せてくれたんじゃないのか?自然がどんな姿にでも変化するという彼らの力を「へへへ〜っ、こうなるんだどー」と、わしらに見せてくれていたんじゃないのか。
だが自然農は「ニンゲンは浅はかな存在なのだから、静かにおとなしくしていなさい。それを悟られて下さい」と言い聞かす。なんだ、仏教みたいじゃないか。
だがたんじゅん農法は、所詮ニンゲンのやる事はすべてが不自然きわまりないんだから、その不自然をいくら自然に近づけようとしたってムリ。だったら何でもやれ。肥料がなんやかんやとか、今までの条件づけを捨てろ。山に行って這いつくばって自然の姿を良く観察しろ!と。
胸の奥の方がワクッとしないだろうか。あれダメ、これダメ、おとなしくしていなさい、と押さえ込まれるよりも、「なんでもやって見ろ」と言われた方がいい。子供も大人もそこら辺は何も違いはない。
多分たんじゅん農法もまだ発展途上なのだ。それが終着点に届くとは私は思わない。すべてのシステムを完成させた途端、自然は「あらよっ」とまた別の世界を表してくるのだ。
この世は常に流転していてとどまる事がない。安定という言葉はニンゲンが作り出した観念だ。そこにとどまっていて欲しい変わらないでいて欲しいという恐怖から作り上げた妄想なのだ。だが現実は否応なく変化し続ける。
その変化の中に自分の身を置く。変化するのがふつうなのだ。たんじゅん農法はその場に押しとどめる法則ではなく、福岡さんのいう「何もないのだ」という所に向かおうとしている、そんな気がする。
山の木や植物はいったいどんな理由であのように大きくなったり豊かにはびこったりするのだろうか。小さなニンゲンが作り出した自然のミニチュアのような畑の中で、その理を見つけ出していく農法であることだからだ。
それまでやっていた自然農は、自然は偉大なものだから、自然にやさしく、自然を怒らせないように、自然の育つままに任せよう、という考えが元になっている。基本的に慣行農法よりも小さく育つ。その理由は肥料であんなに大きく育てられる事自体が不自然なものだからである。本来はあのぐらいの大きさなのである。という考えに基づく。
一見「自然にやさしい」農法であるが、その後ろに「自然はこわい」という心理がコインの裏側にひそんでいる気がする。自然は理解しがたく恐ろしいものだから、自然がやりたいようにやっていただく。私たちニンゲンはそのおこぼれをいただく、というようなどこか悲観的な気分にさせられる。
創始者の川口さんの本を読むと「本来の姿に戻してやればいい」とか「種を降ろしてやる」とか「大切な全体の姿を悟り取られて下さい」いう言葉があちらこちらにでてくる。その言葉を読むたびに、やさしく言い回しながら、なんだかおごった言葉だなあとおもう。
私が草ぼうぼう畑にしたのは、福岡正信さんの本に衝撃を受けたからだった。もし最初に川口さんの本に出会っていたら、きっと畑はやらなかったに違いない。だが福岡さんの本に出会ってしまった。すごいとおもってしまった。どころがいざやろうとすると、「無から始まって無が終着点となる」という彼の本は哲学的すぎて、どーにもこーにもやりようがない。粘土団子を作ってみてもうんともすんともらちがあかない。そりゃそうだ。彼の理想とする畑の姿は、後ろの山の上から木を変えていかねばならないのだ。ムリ。だからハウツーを教えてくれる自然農にした。
やっているうちに、土は掘り起こしてはいけない、耕してはいけない、とやってはいけないことが色々ある。ちょちょっとニンゲンが手を加え、ただ自然が畑を作ってくれるのを待つのである。そして小さめの野菜が育つ。うんうん、それでいーのだ、それで。。。
だが、あの福岡さんの畑で育っていた写真で見たあの超巨大なカブや超巨大な大根はなんなのだ?福岡さんがわしらに見せてくれたたわわに実った稲はなぜなのだ?あれは野菜の可能性を見せてくれたんじゃないのか?自然がどんな姿にでも変化するという彼らの力を「へへへ〜っ、こうなるんだどー」と、わしらに見せてくれていたんじゃないのか。
だが自然農は「ニンゲンは浅はかな存在なのだから、静かにおとなしくしていなさい。それを悟られて下さい」と言い聞かす。なんだ、仏教みたいじゃないか。
だがたんじゅん農法は、所詮ニンゲンのやる事はすべてが不自然きわまりないんだから、その不自然をいくら自然に近づけようとしたってムリ。だったら何でもやれ。肥料がなんやかんやとか、今までの条件づけを捨てろ。山に行って這いつくばって自然の姿を良く観察しろ!と。
胸の奥の方がワクッとしないだろうか。あれダメ、これダメ、おとなしくしていなさい、と押さえ込まれるよりも、「なんでもやって見ろ」と言われた方がいい。子供も大人もそこら辺は何も違いはない。
多分たんじゅん農法もまだ発展途上なのだ。それが終着点に届くとは私は思わない。すべてのシステムを完成させた途端、自然は「あらよっ」とまた別の世界を表してくるのだ。
この世は常に流転していてとどまる事がない。安定という言葉はニンゲンが作り出した観念だ。そこにとどまっていて欲しい変わらないでいて欲しいという恐怖から作り上げた妄想なのだ。だが現実は否応なく変化し続ける。
その変化の中に自分の身を置く。変化するのがふつうなのだ。たんじゅん農法はその場に押しとどめる法則ではなく、福岡さんのいう「何もないのだ」という所に向かおうとしている、そんな気がする。
2011年12月16日金曜日
大根の死はどこにあるのか?
大根が、畑の外にも畝の道にもあっちゃこっちゃから勝手にでてくるので、それを抜いちゃあ食べている。ウチの雑草、大根だから。ほーっほっほ。
でも問題は大根の葉っぱ。贅沢な悩みなんだけど、葉っぱばっかり残る。毎日ゆがいておひたしにして食べるのも、ふりかけにするのも、つけものにするのも飽きたので、この寒い冬のために、乾燥させてお風呂に入れる事にした。からっからに乾かして湯船に浮かべる。う~ん、いいにおい。お日さまの匂いがする。
ケチニンゲンの私、カラカラの大根の葉っぱを風呂に入れて3日目。ふと気がついた。
あれ、緑色の葉っぱ?
小さなみずみずしい葉っぱが、横に寝かされた大根の葉っぱから頭をもたげている。お風呂を終えれお湯をぬいたあと、バスタブの脇によけておいた葉っぱから、新芽が続々とでていたのだ。茶色に乾いた葉っぱより多い。いつのまにか緑色の葉っぱに戻っていたのだ。
おいおい葉っぱ君、君は大根から切り離されて、お日さまに当てられてからっからに乾燥させられて「死んだ」はずじゃなかったんか?んまあ、それでも水につけられて水を吸収して少しは成長もするだろう。しかしその吸収するはずの根っこは君にはない。いや、そもそもその緑色の葉っぱをぐんぐんと太らせる力はどこにあるのだ?
やまんばは風呂に入りながら一人へらへらするのであった。
そもそも植物の「死」とはどこらへんにあるのだろう。葉っぱは根と切り離される。しおれる。時々雨が降る。また息を吹き返す。またしおれる。黄色くなる。茶色くなる。微生物や菌が付く。それを栄養としてキノコが生える。葉っぱのエネルギーはキノコに移行する。キノコがそのエネルギーを吸い尽くす。土に帰る。土の中にそのエネルギーは入る。そのエネルギーを植物の根っこが吸い上げる。。。。
問題。では大根の死はどこにあるのでしょう?
根っこ切り落とされた時?枯れた時?キノコが着た時?土に帰った時?
あ、やまんばに食われたときか。
いやいやそのやまんばに食われたときも腹の中でエネルギーに転換されていく。
死とは、その生き物が動かなくなるとか、息をしなくなるという事を前提にしているんではないだろうか。それはニンゲンが「見ていて動かなくなる」から「死」とよんでいるだけなんではないか?
ところが植物は基本見ていて動かない。だからどこらへんが落としどころかわからない。つまり「死」というものは、ニンゲンの解釈ともいえる。
だがその死も、山で動物が死ねば、ほかの動物や昆虫や微生物にそのエネルギーは転換されていくではないか。死はほかの生き物に生を与えるのだ。ずーっと命はつづいているのだ。
私らニンゲンが勝手に「これは生」「これは死」と名付けているだけなのじゃないか。
私らはこの地球上を知っていると思い込んでいる。大根が大きくなるのもそのシステムを知っていると思い込んでいる。本当にすべて知っているのなら、そのニンゲンの英知を結集した肥料と農薬ですべてが成り立つはずだ。だけれどもその肥料や農薬のおかげで自然が破壊されていく。すべて知っているのならその問題は解決されているはずなのだ。だが事態はもっと深刻になる。
私たちは何も知らないのだ。知っていると思い込んでいるから、あっちこっちから矛盾がでてくる。知っていると思い込んでいるから、自分たちでなんとかできると思っている。その結果原発や放射能を生み出した。こんどはその手に負えないものも自分たちでなんとかしようとしている。できるのだろうか。
風呂の中で風呂の水で大きく育った大根の葉っぱを眺めながら思う。
この世はわたしたちニンゲンが考えるよりも、とてつもなく大きなものが動いているんじゃないだろうか。私たちニンゲンの知らないところでいろんなモノがせっせせっせと浄化され、バランスを保つように動いているんだろうなと。
それは石けんなし生活をして、石けんというものがどんなにいらないものかを知ったし、自然農やたんじゅん農法で肥料が意味のないものともわかってきたからだ。その両者はともにニンゲンが「これがないといけない」と作り上げて来たもの。だが結果としてそれはニンゲンの身体をアンバランスにさせ、自然界にもアンバランスを生み出した。
今回の原発や放射能問題も私たちニンゲンに何かを教えようとしている。ニンゲンのおごりに対するやさしいメッセージなのではないか。
大根を動かしているこのエネルギーは何なんだろう。広島や長崎が今も人が住んでいるのはなぜなんだろう。そこでとれた野菜が食べられるのはなぜなんだろう。原爆が落とされた土地は何万年も住めないはずではなかったか。ニンゲンが研究によって導きだしてきたものは果たして真実だったんだろうか。
そのメッセージはたんじゅんに「じゃあ原発反対!」や「あぶないから放射能を除去!」と言った今の私たちニンゲンが考える目先の事ではなく、もっと底知れない何かが動いているのだという事を教えられているような気がしてならないのだ。
でも問題は大根の葉っぱ。贅沢な悩みなんだけど、葉っぱばっかり残る。毎日ゆがいておひたしにして食べるのも、ふりかけにするのも、つけものにするのも飽きたので、この寒い冬のために、乾燥させてお風呂に入れる事にした。からっからに乾かして湯船に浮かべる。う~ん、いいにおい。お日さまの匂いがする。
ケチニンゲンの私、カラカラの大根の葉っぱを風呂に入れて3日目。ふと気がついた。
あれ、緑色の葉っぱ?
小さなみずみずしい葉っぱが、横に寝かされた大根の葉っぱから頭をもたげている。お風呂を終えれお湯をぬいたあと、バスタブの脇によけておいた葉っぱから、新芽が続々とでていたのだ。茶色に乾いた葉っぱより多い。いつのまにか緑色の葉っぱに戻っていたのだ。
おいおい葉っぱ君、君は大根から切り離されて、お日さまに当てられてからっからに乾燥させられて「死んだ」はずじゃなかったんか?んまあ、それでも水につけられて水を吸収して少しは成長もするだろう。しかしその吸収するはずの根っこは君にはない。いや、そもそもその緑色の葉っぱをぐんぐんと太らせる力はどこにあるのだ?
やまんばは風呂に入りながら一人へらへらするのであった。
そもそも植物の「死」とはどこらへんにあるのだろう。葉っぱは根と切り離される。しおれる。時々雨が降る。また息を吹き返す。またしおれる。黄色くなる。茶色くなる。微生物や菌が付く。それを栄養としてキノコが生える。葉っぱのエネルギーはキノコに移行する。キノコがそのエネルギーを吸い尽くす。土に帰る。土の中にそのエネルギーは入る。そのエネルギーを植物の根っこが吸い上げる。。。。
問題。では大根の死はどこにあるのでしょう?
根っこ切り落とされた時?枯れた時?キノコが着た時?土に帰った時?
あ、やまんばに食われたときか。
いやいやそのやまんばに食われたときも腹の中でエネルギーに転換されていく。
死とは、その生き物が動かなくなるとか、息をしなくなるという事を前提にしているんではないだろうか。それはニンゲンが「見ていて動かなくなる」から「死」とよんでいるだけなんではないか?
ところが植物は基本見ていて動かない。だからどこらへんが落としどころかわからない。つまり「死」というものは、ニンゲンの解釈ともいえる。
だがその死も、山で動物が死ねば、ほかの動物や昆虫や微生物にそのエネルギーは転換されていくではないか。死はほかの生き物に生を与えるのだ。ずーっと命はつづいているのだ。
私らニンゲンが勝手に「これは生」「これは死」と名付けているだけなのじゃないか。
私らはこの地球上を知っていると思い込んでいる。大根が大きくなるのもそのシステムを知っていると思い込んでいる。本当にすべて知っているのなら、そのニンゲンの英知を結集した肥料と農薬ですべてが成り立つはずだ。だけれどもその肥料や農薬のおかげで自然が破壊されていく。すべて知っているのならその問題は解決されているはずなのだ。だが事態はもっと深刻になる。
私たちは何も知らないのだ。知っていると思い込んでいるから、あっちこっちから矛盾がでてくる。知っていると思い込んでいるから、自分たちでなんとかできると思っている。その結果原発や放射能を生み出した。こんどはその手に負えないものも自分たちでなんとかしようとしている。できるのだろうか。
風呂の中で風呂の水で大きく育った大根の葉っぱを眺めながら思う。
この世はわたしたちニンゲンが考えるよりも、とてつもなく大きなものが動いているんじゃないだろうか。私たちニンゲンの知らないところでいろんなモノがせっせせっせと浄化され、バランスを保つように動いているんだろうなと。
それは石けんなし生活をして、石けんというものがどんなにいらないものかを知ったし、自然農やたんじゅん農法で肥料が意味のないものともわかってきたからだ。その両者はともにニンゲンが「これがないといけない」と作り上げて来たもの。だが結果としてそれはニンゲンの身体をアンバランスにさせ、自然界にもアンバランスを生み出した。
今回の原発や放射能問題も私たちニンゲンに何かを教えようとしている。ニンゲンのおごりに対するやさしいメッセージなのではないか。
大根を動かしているこのエネルギーは何なんだろう。広島や長崎が今も人が住んでいるのはなぜなんだろう。そこでとれた野菜が食べられるのはなぜなんだろう。原爆が落とされた土地は何万年も住めないはずではなかったか。ニンゲンが研究によって導きだしてきたものは果たして真実だったんだろうか。
そのメッセージはたんじゅんに「じゃあ原発反対!」や「あぶないから放射能を除去!」と言った今の私たちニンゲンが考える目先の事ではなく、もっと底知れない何かが動いているのだという事を教えられているような気がしてならないのだ。
2011年12月11日日曜日
自然農とたんじゅん農法のちがい?
サラダ用の水菜がそろそろ元気がなくなって来た。11月頃はぐんぐん大きくなって間引きしながら楽しんだ。だけど12月に入ってからグンと寒くなったり、霜が降りたりするうちに、ちょっと黄色くなって成長が止まってきた。
しかし北の方の畝に植えた別の種の水菜は今どんどん大きくなっている。サラダ用の水菜は高さが20センチくらいだったが、野口種苗で買った固定種の京水菜は30〜40センチになってきて、まだこれから大株になろうとしている。緑色も濃い。
この二つの水菜の違いは、前者、自然農仕様。後者、たんじゅん農法仕様。サラダ用の方は近所で買った交配種。同じ種を入れて実験すりゃよかったなあと後悔する。
明らかに持久力がちがう。
上に生えている草を刈って、畝の上に乗っけただけだと、土の下にある微生物のエネルギーが使い果たされてしまうのだろうか。
今畑にある秋野菜、ほうれん草、コカブ、キャベツ、白菜、ノラボウ、ブロッコリー、ケール、大根、タアサイ、絹さや、スナップエンドウ、など、サラダ用の水菜以外、みんなたんじゅん農法っぽい方法でやってみた。
草を根元から刈る。ハミキリで10センチくらいにカットする。畝の上に載せる。剪定チップを載せる。さらさらっと米ぬかと油かすをうすく蒔く。で、さくさくと10センチ程すき込む。その上に、残りの草か、一センチくらい剪定チップを乗っける。(ときどき米ぬかと油かす入れるのを忘れている)というやりかただ。
するとどうだ。去年の今頃の畑とえらい違う様相を呈している。苗で買った白菜なんか、でっかく巻いたりっぱな白菜になってキムチ作っちゃった。なんだか畑っぽいだろー。(レベル低過ぎる?)
コカブと、ほうれん草とキャベツとノラボウが並んでいる。みんな緑色がちがう。コカブは黄緑色、ほうれん草は濃い深緑色、キャベツは青みの強いそして上に白い粉を吹いたような緑色、そしてノラボウは、黄緑色に少し青みを足して、赤みも入った複雑な色合い。同じ野菜なのに、こんなにも色が豊富でみんながそれぞれにちがう色をしているとは思わなかった。スーパーでは気がつかなかった野菜たちの色のオンパレードだ。
あのまま自然農でこの秋野菜を作っても、ある程度は出来たのかもしれない。それはサラダ用の水菜が教えてくれた。だけどその後の持久力、大きくなろうとする力は、やはり土の中に入った草たちの仕業じゃないだろうか。
これからも実験は続くのであった。
しかし北の方の畝に植えた別の種の水菜は今どんどん大きくなっている。サラダ用の水菜は高さが20センチくらいだったが、野口種苗で買った固定種の京水菜は30〜40センチになってきて、まだこれから大株になろうとしている。緑色も濃い。
この二つの水菜の違いは、前者、自然農仕様。後者、たんじゅん農法仕様。サラダ用の方は近所で買った交配種。同じ種を入れて実験すりゃよかったなあと後悔する。
明らかに持久力がちがう。
上に生えている草を刈って、畝の上に乗っけただけだと、土の下にある微生物のエネルギーが使い果たされてしまうのだろうか。
今畑にある秋野菜、ほうれん草、コカブ、キャベツ、白菜、ノラボウ、ブロッコリー、ケール、大根、タアサイ、絹さや、スナップエンドウ、など、サラダ用の水菜以外、みんなたんじゅん農法っぽい方法でやってみた。
草を根元から刈る。ハミキリで10センチくらいにカットする。畝の上に載せる。剪定チップを載せる。さらさらっと米ぬかと油かすをうすく蒔く。で、さくさくと10センチ程すき込む。その上に、残りの草か、一センチくらい剪定チップを乗っける。(ときどき米ぬかと油かす入れるのを忘れている)というやりかただ。
するとどうだ。去年の今頃の畑とえらい違う様相を呈している。苗で買った白菜なんか、でっかく巻いたりっぱな白菜になってキムチ作っちゃった。なんだか畑っぽいだろー。(レベル低過ぎる?)
コカブと、ほうれん草とキャベツとノラボウが並んでいる。みんな緑色がちがう。コカブは黄緑色、ほうれん草は濃い深緑色、キャベツは青みの強いそして上に白い粉を吹いたような緑色、そしてノラボウは、黄緑色に少し青みを足して、赤みも入った複雑な色合い。同じ野菜なのに、こんなにも色が豊富でみんながそれぞれにちがう色をしているとは思わなかった。スーパーでは気がつかなかった野菜たちの色のオンパレードだ。
あのまま自然農でこの秋野菜を作っても、ある程度は出来たのかもしれない。それはサラダ用の水菜が教えてくれた。だけどその後の持久力、大きくなろうとする力は、やはり土の中に入った草たちの仕業じゃないだろうか。
これからも実験は続くのであった。
2011年12月5日月曜日
頭はテレビのブラウン管
私たちの監獄から抜け出すには、私たち自身が、自分自身から解放されなければいけない。
そのためには、自分が心の手かせ足かせでがんじがらめになっていることに気がつく必要がある。その手かせ足かせとは「過去」である。
私たちの頭はテレビのようだ。
過去自分の身に起ったこと、見たこと、聞いたこと、感じたこと、すべてをこのブラウン管の中に内蔵してある。その映像を時間の経過関係なく、支離滅裂にひたすら垂れ流し状態にしているのが、私たちの思考なのだ。その垂れ流し状態の映像を見続けているのも、また私たち自身なのだ。そしてそれぞれの映像を見るたび、そのときの感情を呼び起こす。「ああ、そうそう、あのときはああだった」「ああ、あれもそう、あんときはめっちゃ腹立ったなあ」
これ、何かに似ていないか?
牛の反芻。。。
言葉自動発令機は、そのまま過去自動映写機でもある。
私たちは目の前にいる人や風景をそのまま見ているのではなく、過去にあった出来事を通して見ている。奥さんを見る時、今目の前で喋っている奥さんをそのまま見ているのではなく、彼女が過去にあなたにしたことや言ったことを思い出している。そのフィルターを通して彼女を見ているのだ。
たとえば、
「ゴミ、出しといてね」と彼女が言ったとする。
すると心の中は、ああめんどくさいな、と瞬間反応する。
事実は、奥さんがゴミを出すように言った、それだけなのだ。だが心は過去にあったイヤなことを思い出している。「何それ!それじゃないでしょ!こっちのゴミ出してっていっといたのに!ったくもう、あんたって人はたよりないんだから!」
とかいわれたことをぷちっと思い出してしまうのだ。
だから面倒くさいなと思う。重い心で、重いゴミをずるずると出す。
そういうことが日常茶飯事につぎつぎとおこる。ぷちぷちとおこる。
反対に、過去に「あらっ。上手ね。さすがだわ。上手にゴミ出しできる人!」なんて言われていたら、その人は面倒くさいなとは思わず、嬉々としてゴミを出すはずだ。
だがどっちにしろ私たちは絶えず過去というものに縛られている。過去というフィルターを通して今を見ている。
私たちは今に生きているのではないのだ。過去に生きているのだ。それが手かせ足かせになって私たちを苦しめている。
そのためには、自分が心の手かせ足かせでがんじがらめになっていることに気がつく必要がある。その手かせ足かせとは「過去」である。
私たちの頭はテレビのようだ。
過去自分の身に起ったこと、見たこと、聞いたこと、感じたこと、すべてをこのブラウン管の中に内蔵してある。その映像を時間の経過関係なく、支離滅裂にひたすら垂れ流し状態にしているのが、私たちの思考なのだ。その垂れ流し状態の映像を見続けているのも、また私たち自身なのだ。そしてそれぞれの映像を見るたび、そのときの感情を呼び起こす。「ああ、そうそう、あのときはああだった」「ああ、あれもそう、あんときはめっちゃ腹立ったなあ」
これ、何かに似ていないか?
牛の反芻。。。
言葉自動発令機は、そのまま過去自動映写機でもある。
私たちは目の前にいる人や風景をそのまま見ているのではなく、過去にあった出来事を通して見ている。奥さんを見る時、今目の前で喋っている奥さんをそのまま見ているのではなく、彼女が過去にあなたにしたことや言ったことを思い出している。そのフィルターを通して彼女を見ているのだ。
たとえば、
「ゴミ、出しといてね」と彼女が言ったとする。
すると心の中は、ああめんどくさいな、と瞬間反応する。
事実は、奥さんがゴミを出すように言った、それだけなのだ。だが心は過去にあったイヤなことを思い出している。「何それ!それじゃないでしょ!こっちのゴミ出してっていっといたのに!ったくもう、あんたって人はたよりないんだから!」
とかいわれたことをぷちっと思い出してしまうのだ。
だから面倒くさいなと思う。重い心で、重いゴミをずるずると出す。
そういうことが日常茶飯事につぎつぎとおこる。ぷちぷちとおこる。
反対に、過去に「あらっ。上手ね。さすがだわ。上手にゴミ出しできる人!」なんて言われていたら、その人は面倒くさいなとは思わず、嬉々としてゴミを出すはずだ。
だがどっちにしろ私たちは絶えず過去というものに縛られている。過去というフィルターを通して今を見ている。
私たちは今に生きているのではないのだ。過去に生きているのだ。それが手かせ足かせになって私たちを苦しめている。
2011年12月1日木曜日
否定する快感
心が落ち着いてくると、自分の行為が冷静に見られるようになる。するとそれまで気がつかなかったことや視点があらわれてくる。
だいたい人が怒るきっかけは、ほとんど同じところにある。
いつも似たような出来事に、似たように反応している。それに気がつく。
その時、意識はもう自分の外に出ている。
自分を外から見る事によって理解し始める、けんかした相手の視点、考え方、立場。
もっと引いて二人の様子を眺める。その時、批判的になっている自分がいないことに気がつくだろう。そこには感情というものが存在していないことに気がつくだろう。
この瞬間が何よりも大事なのだ!
ここ!ここ大事!テストにでるよ。(でないでない)
するとふしぎなことに、相手とか自分とかの境界線が曖昧になってくる。こっちの陣地、あっちの陣地、と今まではっきりと引かれていたラインが、ぼんや~りしてきて、どこまでがどこまでか、どうでもいいことになってくる。
ここまで来ると、いい、わるい。正しい、正しくない。善、悪。敵、味方。という線引きがなくなってくる。二元論が消えていく。
やまんばが、ひさしぶりに日本に帰って来たとき、日本の人々やテレビやものもろのシーンで、「敵」とか「味方」とか言っているのに気がついた。それまでいた、人種のサラダボールといわれたニューヨークでは、言葉も文化も違うから、必然的に人種が別れてしまうけれど、日本の同じ文化、同じ言葉が通じ合う中で、なんで敵とか味方とか言ってるんだろと笑ってしまったものだ。
しかし実際はそんな単純なものではなかった。
人々の心が不安定になって、自分と言うものがなによりもたちあがってしまったことのあらわれだったのだ。
ここで質問。
「○○ちゃん、これたべる?」って聞かれると、
「うん、たべる」と応えるのと、
「○○ちゃん、これたべる?」って聞かれると、
「やだ。いらな~い」という。
さて、どっちが自分を強く意識するでしょう。
「お前のことが大好きだ」
というのと、
「お前のことが大嫌いだ」
というのでは、どっちが自分を強く意識するでしょう。
「人類みな兄弟」というのと、
「戦争反対」
というのでは、どっちが自分を強く意識するでしょう。
いきなり変な質問で、なにがなんだかわからない?
でも、なんとなく否定的に言っている方が、自分の意識をたちあがらせる感じがしないだろうか。
否定的に考えている方が、自分というものを強く意識させる。これは自分に向けられる否定的なことでも、人に向けられる否定的なことでも同じ。
「オレってダメだ!」と思っている方が、「オレっていいヤツ」と思っているよりも自分を意識する。反抗期の時、親に向かってなんでも「いやだいやだ」といっていたのは、自我のめざめともいうが、別な言い方をすると、自分というものを強く意識させてくれる瞬間を知ったからだ。
あれ、快感なのだ。
それ、だめだ。
おまえはまちがっている。
これだから政治家はだめなんだ。
大人ってずるい。
あの人、ひどい人。
それって、ないんじゃないの?
信じらんな~い。
この言葉は、なんでも「うんうん、そうだね」っていうよりは、なんかいい気分にならないだろうか。ちょっとオレはほかの奴らと違うぞ、考えてるぞ、なんて。
昔いなかっただろうか。近所にうんちくたれるオヤジ。
「だいたいだなあ~、世の中は。。。」
そういってるオヤジはいい気分にひたっているように見えなかっただろうか。
それと同じで、こっちが味方であっちが敵、エイエイオー!ってやると、人は燃える。敵を持っている方が燃えるのだ。だから敵を作る。
でもよく観察すると、敵に依存している。
敵がいてくれないと困るのだ。だってそれがいないと、自分が立っている位置が分らなくなるではないか。生きる目標がなくなるではないか。ついでに自分がいる意味も見出せないではないか!
どっかのお国もそうだ。いつも敵を作らないといけないらしい。だから自ら敵を探しにいく。足りないと時々自分で作る(笑)。
これを『敵依存症』と呼ぶ。(呼ばない呼ばない)
問題意識、問題定義がなされている時、心は「オレは正しい」という大義名分の上に乗っかって、いきている実感が得られる。自分という存在を強く意識できる。その快感は延々と持続してくれることをのぞみ、これが言葉自動発令機のエネルギー源になる。
だが、反対に心が静かになった時、感情的でなくなっている時、わたしたちは、自分というものを強く意識しない。そのとき、やっかいな自分というモンスターはどこにもいない。そして相手と自分との境界線がなくなっていく。
これがジル・テイラー博士が言った右の脳の働きなのではないだろうか。
私たちは否定的にものを考えることによって自分を強く意識する。二元論を持ち出せば持ち出すほど、自分がたちあがる。それはある種の快感である。もっとそれをほしがる。だが不幸なことに、それに比例して、自分と他人というくっきりとした境界線が現れ、孤立の道へと導びかれるのだ。
孤立した心は自己保身が強くなる。外からの言葉に過剰に敵対心を持つ。それが「敵・味方」や「仲間」という言葉に現れてくるのではないだろうか。
さながら荒野に放り出された一匹狼のように。
だいたい人が怒るきっかけは、ほとんど同じところにある。
いつも似たような出来事に、似たように反応している。それに気がつく。
その時、意識はもう自分の外に出ている。
自分を外から見る事によって理解し始める、けんかした相手の視点、考え方、立場。
もっと引いて二人の様子を眺める。その時、批判的になっている自分がいないことに気がつくだろう。そこには感情というものが存在していないことに気がつくだろう。
この瞬間が何よりも大事なのだ!
ここ!ここ大事!テストにでるよ。(でないでない)
するとふしぎなことに、相手とか自分とかの境界線が曖昧になってくる。こっちの陣地、あっちの陣地、と今まではっきりと引かれていたラインが、ぼんや~りしてきて、どこまでがどこまでか、どうでもいいことになってくる。
ここまで来ると、いい、わるい。正しい、正しくない。善、悪。敵、味方。という線引きがなくなってくる。二元論が消えていく。
やまんばが、ひさしぶりに日本に帰って来たとき、日本の人々やテレビやものもろのシーンで、「敵」とか「味方」とか言っているのに気がついた。それまでいた、人種のサラダボールといわれたニューヨークでは、言葉も文化も違うから、必然的に人種が別れてしまうけれど、日本の同じ文化、同じ言葉が通じ合う中で、なんで敵とか味方とか言ってるんだろと笑ってしまったものだ。
しかし実際はそんな単純なものではなかった。
人々の心が不安定になって、自分と言うものがなによりもたちあがってしまったことのあらわれだったのだ。
ここで質問。
「○○ちゃん、これたべる?」って聞かれると、
「うん、たべる」と応えるのと、
「○○ちゃん、これたべる?」って聞かれると、
「やだ。いらな~い」という。
さて、どっちが自分を強く意識するでしょう。
「お前のことが大好きだ」
というのと、
「お前のことが大嫌いだ」
というのでは、どっちが自分を強く意識するでしょう。
「人類みな兄弟」というのと、
「戦争反対」
というのでは、どっちが自分を強く意識するでしょう。
いきなり変な質問で、なにがなんだかわからない?
でも、なんとなく否定的に言っている方が、自分の意識をたちあがらせる感じがしないだろうか。
否定的に考えている方が、自分というものを強く意識させる。これは自分に向けられる否定的なことでも、人に向けられる否定的なことでも同じ。
「オレってダメだ!」と思っている方が、「オレっていいヤツ」と思っているよりも自分を意識する。反抗期の時、親に向かってなんでも「いやだいやだ」といっていたのは、自我のめざめともいうが、別な言い方をすると、自分というものを強く意識させてくれる瞬間を知ったからだ。
あれ、快感なのだ。
それ、だめだ。
おまえはまちがっている。
これだから政治家はだめなんだ。
大人ってずるい。
あの人、ひどい人。
それって、ないんじゃないの?
信じらんな~い。
この言葉は、なんでも「うんうん、そうだね」っていうよりは、なんかいい気分にならないだろうか。ちょっとオレはほかの奴らと違うぞ、考えてるぞ、なんて。
昔いなかっただろうか。近所にうんちくたれるオヤジ。
「だいたいだなあ~、世の中は。。。」
そういってるオヤジはいい気分にひたっているように見えなかっただろうか。
それと同じで、こっちが味方であっちが敵、エイエイオー!ってやると、人は燃える。敵を持っている方が燃えるのだ。だから敵を作る。
でもよく観察すると、敵に依存している。
敵がいてくれないと困るのだ。だってそれがいないと、自分が立っている位置が分らなくなるではないか。生きる目標がなくなるではないか。ついでに自分がいる意味も見出せないではないか!
どっかのお国もそうだ。いつも敵を作らないといけないらしい。だから自ら敵を探しにいく。足りないと時々自分で作る(笑)。
これを『敵依存症』と呼ぶ。(呼ばない呼ばない)
問題意識、問題定義がなされている時、心は「オレは正しい」という大義名分の上に乗っかって、いきている実感が得られる。自分という存在を強く意識できる。その快感は延々と持続してくれることをのぞみ、これが言葉自動発令機のエネルギー源になる。
だが、反対に心が静かになった時、感情的でなくなっている時、わたしたちは、自分というものを強く意識しない。そのとき、やっかいな自分というモンスターはどこにもいない。そして相手と自分との境界線がなくなっていく。
これがジル・テイラー博士が言った右の脳の働きなのではないだろうか。
私たちは否定的にものを考えることによって自分を強く意識する。二元論を持ち出せば持ち出すほど、自分がたちあがる。それはある種の快感である。もっとそれをほしがる。だが不幸なことに、それに比例して、自分と他人というくっきりとした境界線が現れ、孤立の道へと導びかれるのだ。
孤立した心は自己保身が強くなる。外からの言葉に過剰に敵対心を持つ。それが「敵・味方」や「仲間」という言葉に現れてくるのではないだろうか。
さながら荒野に放り出された一匹狼のように。
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