2011年6月27日月曜日
高尾、高いの?低いの?
友だちが、ガイガーカウンターをもって畑にやって来た。
畑の中で土の上をはかってみる。0、15マイクロシーベルト。畝の中をはかってみる。0、15〜0、16マイクロシーベルト。水たまりのところが危ないというんで、雨水をためている風呂桶をはかる。0、14マイクロシーベルト。
で、どう?ほかは。ときくと、畑に向かう時、ガイガーカウンターを手でもって移動。地面から1メートルの高さ。0、14マイクロシーベルト。地面と空中の差はあまりなかった。
で、それは高いの?低いの?
さあ。
聞く所によると、自然放射能は日本の場合、年間積算量1、26ミリシーベルトだそうだ。ミリシーベルトは、マイクロシーベルトの1000倍。これを365日で割って、それを24時間で割る。すると、だいたい0、14マイクロシーベルトパーアワーとなる。ということは、畑の放射能は、年間自然放射能とほとんどかわらない。ということになる。
さて有名な武田教授の6月23日の記事によると、名古屋の栄で、0、15マイクロシーベルト出た!とのこと。とんでもない危ないことだそうだ。それによると、東京で0、11マイクロシーベルト以上出るところはまれだという。するってえと、高尾はとてつもなく大変な数値を出している!ということになろうか。
教授のことはおいといて、実は都心よりも山あいの方が放射能が多いのだと言う。植物からいろんなモノが放出されているようだ。それが人々に心地よい感じを与えている。
そのガイガーカウンターがどの程度正確なものかは分らないけれど、今回空中ではかったのと、地面近くではかったのがほとんど同じ数値を出しているということは、元々ここに存在している高尾の放射能なのかもしれない。原発からふりそそいだものなら、降り積もってたまっている地面の方が多いのではないだろうか。
ひまわりが放射能を吸収すると最近騒がれているけれど、他の植物だって思いっきり地面に入ったものを吸収する。ほうれん草に特に出るのは、ほうれん草が肥料食いと言われているからかもしれない。カリウムだろうが、セシウムだろうが、何でもおおいに吸っちゃうのかも。
放射能は目に見えなくてこわいけど、植物には浄化作用というものがあることを忘れている気がするなあ。広島に黒い雨が降り注いだ翌年、すべての野菜が豊作だったようだ。それは彼らがこの地上のバランスをとるために、ひたひたとさくさくと、浄化の仕事を行なっていたからじゃないだろうか。ウチの畑にもふりそそいだんだろうけど、草たちがどんどん吸い上げて、どんどん浄化していったのかもしれない。
それはニンゲンの身体にも言えることだと思うんだなあ。石けんなし生活で実感するのは、ニンゲンの身体の何と自己完結した完璧な働きをする生き物かと。その働きたるや、はあ〜、恐れ入りました状態。私らニンゲンがちっこい頭であーしなきゃ、こーしなきゃ、とわあわあ騒いでいるあいだにも、ひたひたと、さくさくと、すべてのバランスをとるために働いてくれている。
ようするに、ニンゲンの頭だけが錯乱しているだけなのかもしれない。こうでなきゃだめだ、あーでなきゃいやだといってるのは、ニンゲンの頭だけだ。植物はその身を枯らしながら、虫に食われながら、大きな営みを続けている。身体も同じだ。
その大きなうねりを、どどーんと受け取りたいのだ。
絵:似顔絵「養老孟司」
2011年6月23日木曜日
こわくね?
ニュースは言う。
「今日はたいへん暑い一日でした」
「電気使用量が軒並み85%を超えました。このままいくと、夏本番には明らかに供給量が足りなくなってきます」
「そんな中、セーフは原発の安全基準を強化しました」
「今日は熱中症にかかる人が続出しました」
「ボランティアの方々が、一人暮らしのお年寄りのところを訪問します」
お年寄りは言う。
「ええ、できるだけクーラーは使わないようにしています」
ボランティアさんは言う。
「でも熱中症にかかるといけないので、ときどきクーラーはつけて下さいね」
「さて、副島第一原発のおはなしです。高濃度の汚染水が漏れていました。非常に危険です」
ニュースなんてただの情報だが、よく聞いていると、ニュースに誘導されているのがわかる。
今日は暑い一日だった。
このまま行くと、電気料が足りなくなると脅す。今、日本中の54基の原発のうち、35基ほどが止まっている。今は原発なんていらないという人々がいるはずだ。それに向かってなにげに訴えている。このまま夏に向かって原発を動かさないとどうなるか分ってますか?と。それからすかさず、セーフは安全基準を強化したという。すると
「ああ、原発も基準を高くすると安心だあなあ」
という気分にさせる。
そうすると、タタミカケルように、熱中症でお年寄りが亡くなった話をする。
「ああ、やっぱり電気は必要だあなあ」
と、さらに確信に向かわせる。
と、ここでいきなり原発の今現実に起っているあぶない状況を報道する。
人は「ええ〜っ、やっぱりあぶないじゃん!」とびっくりする。
ニュースは何をやっているか。混乱させているのだ。原発は安心ですよ〜ともっていきつつ、最後に落とす。一見、どちらの意見も報道して公平なように見せている。ここがくせものだ。人はどっちの意見も言われると混乱し、迷い、結局自分で判断することを放棄してしまう。混乱した頭に「こっちですよ〜」といわれると、そっちにおもわずふらふらとついていくものだ。
電気を使うなと言ったり、熱中症になるから使えと言ったり。そうやってどっちにしていいかわからないようにさせて、誘導する。心理作戦の成功パターンだ。
テレビを見ているとほとんどそういうパターンになっている。今まで気にもしなかったことを問題視させ、動揺させ、そのための解決方法を教える。はじめから答えありきだ。それは健康番組も、化粧品やヘアケアのコマーシャルも。
玉虫色の、コロコロ変わる価値観で混乱させられ、自分の中で矛盾するものを抱え、イライラし、ダンナと奥さんが意見の相違でケンカする。
私たちの価値観は、実は外から知らず知らず作られている可能性がないかい?
絵:似顔絵「秋山仁」
2011年6月22日水曜日
よし、蛍になろう
夜寝る前に、部屋の明かりを消して窓を開ける。
暗闇の中に小さな光がふ〜わふわと移動する。今年も蛍がやって来た。このところの暑さで急に出てきたのであろうか。いつもの蛍スポットにいくと、去年より多い。きれいな光が川の上や木の下でゆらゆらゆれている。音もなく飛ぶ姿はなんと優雅なんだろう。彼らは今、生を謳歌しているのだな。
そりゃ、パートナーを見つけるために必死で光っているともいえる。しかし、空を羽ばたきもせずとぶタカや、へたくそなのにいつまでも歌ううぐいすなど、彼らの姿を見ていても、単にパートナーを求める理由だけでやっているとは、やまんばはおもえないのだな。ただ飛ぶ、鳴く、光る喜びを楽しんでいるようにみえる。
ほんとは理由なんか、ニンゲンが勝手にこじつけたものなのかもしれない。どうして?なぜ?と聞くからしょーがなく。ひょっとしたら、歌っているとパートナーがやって来たり、光っているとパートナーがやって来たりしているだけなのかもしれない。どっちが先かわからんではないか。
結局彼らにとって一番の理由は、楽しいからなのかもしれない。明日のことを煩うこともなく、過去に引っ張られることもなく、ただ今を謳歌しているだけなのだ。
鳴きたいから鳴く。光りたいから光る。飛びたいから飛び、水に飛び込みたいから飛び込む。ついでにニンゲンもそうなっちゃえばいいんだ。泣きたいから泣き、怒りたいから怒る。叫びたいから叫び、走りたいから走る。飛びたかったら飛び。。。こりゃムリか。
前後左右まわりのこと、近所の手前、将来のため、昇格のため、家のため、死にたくないため、いろんなことが心配で、ガマンして生きているのだ。ガマンするのが大人の姿だと思ってる。
なんだかね。
そんなのがほとほといやんなっちゃったのだ。
と、ここまで書いたところで、
ウチの家の前を幼稚園児が集団で通り過ぎる。
「かえるのうたが〜きこえてくるよ〜」とみんなで大合唱。
すると、突然男の雄叫びが。
「うっせえんだよーっ!」
「なんか言ってみろーっ!5、4、3、2、1ー!」
近所の自閉症の僕だ。保母さんは後ろを振り返り振り返り、園児を連れて行く。保母さんとしちゃ、心配だろうな。なにされるかわからん。
けどその僕の気持ちも分る。私も言いたい。だけど言ったら、保母さんも子供もおびえることになる。どっちの気持ちも分るからどっちもやれないわけだ。するとやりたいのにやれないというジレンマが起る。それがガマンになる。
どっちにもつかないことだろうな。この人間界の価値観の中に、どっぷり浸からないことなんだろう。その価値観を外から見るようになれたらいいな。だって蛍もタカも人間界の価値観にいない。「心配」なんて言葉もないかもしれない。だからただ今生きる。
よし、やまんばも蛍になろう。
絵:似顔絵「森毅」
2011年6月17日金曜日
死ぬ時の自分
ある人から聞いた話だ。
今回の震災で、ご友人のお母様が亡くなられたそうだ。彼女は津波に流されながら、
「みんな、今までありがとうね〜」
と、手を振りながら流されていったのだと言う。
ショックだった。それ以来その話がずっと頭からはなれない。私は、死に際にそんなふうに言えるだろうか。ぜーったい、
「ぎゃあああーーーーっ、だずげで〜〜〜〜〜っ!!!」
って叫ぶだろう。
例えば長患いのように、彼女に死が刻々と迫って覚悟を決める時間があったわけでもない。まさに青天の霹靂のごとく、突然やって来た死だ。それなのに彼女は今まさに死に向かう自分を、荒波とゴミの中でしっかりと受け止め、しかもみんなにお礼を言う余裕まである。いや、彼女は瞬間のうちにすべてを把握したのだ。なんとすごいお人なのだ。
やまんばもそんなふうになりたい。なれるかな?いや、てんで無理だ。大騒ぎして助けを求めてしまうに決まっている。んで、誰にも助けられずに、もがきながら死んでいくのだ。
人は100%死ぬって分っているのに、なんで死が怖いのか。それは知らないからだ。死ぬことだけは知っているが、その先のことがまったく分らないからだ。死んだらどうなってこうなって。。。と知っていれば、怖くない。しかし死んだ人は「あれはねえ〜、こーなって、あーなって、そーなるのよ」とは、教えてくれない。時々戻って教えてくれる人がいるけど、せいぜい三途の川のほとりまで。渡ったらどーなるのか、やっぱりわからない。チャネリングで教えてもらったりもするが、これもあいまい。結局何を信じるかっちゅう次元の話になる。んで人はなんだか不安なので、死後の世界があると信じてみるのだ。
心は何に恐怖するかと言うと、知らないことに恐怖する。心は知っていることで出来ている。心にいっぺん聞いてみそ。
「知らないこと、知ってる?」って。そーしたら、
「うん。知らないことってあるって知ってるよ」という。
「じゃなくてえ、私が知らないこと、あんた知ってるの?」
すると、
「え?あんたが知らないこと、私が知ってるわけないでしょ」というはずだ。
死後の世界も、みーんなどっかから教えてもらった知識だ。丹波さんや美輪さんや江原さんが言ってたのを聞きかじりしただけだ。私は何にも知らない。
心は知っていることしか知らない。つまり過去に経験したことや、誰かに聞いたことだけを反復しているのだ。心は既知のもので満たされている。しかし知らないものがあるということだけ知っている。それは一体どういうものなのか知らない。だから恐れる。死に対する恐怖も、その知らないがゆえに恐れることなのだ。
知らない道を歩くとき、ちょっとした恐怖をもつのは、その道を知らないから。未来の自分に不安を抱くのは、未知だからだ。なぜ不安になるかと言うと、記憶の中に不幸な老後を送った人がいたり、見たり、聞いたり、したからだ。そして自分もそうなるかもしれない。。。と恐れるからだ。ほら、やっぱり心は知っているもので満たされている。
今回の震災は想定外だった。
何もかもが前例にそって動いていない。「え〜〜〜〜っ、聞いてなーい!」
知らないことだらけ。
知らない道とおるのは不安だけど、いざ通り抜けてみたら「なーんだ。」となったりする。
今の私たちには情報がすべてなところがある。知っている方が知らないよりマシ。とおもっている。しかし心は勝手に暴走する事を知っておく必要がある。知らない不安から、入ってくる情報を詰め込むだけ詰め込んで不安を解消しようとする。しかし死後の世界と同じで、どこまで信じるかになってくる。つまり最終的な答えはない。だからいつまでも不安と恐怖が心を占領する。あなたが一番恐れていることは、今ここにはない。その恐れているものは、今その心の中にだけあるのだ。それに心が振り回されているだけなのだ。心とは、あっちゃこっちゃ人を振り回すのが趣味なのだ。そんなもんにいつまでもお付き合いする必要はない。それがいかに人を無駄に疲労させているか。
ご友人のお母さんは、その瞬間すべてをそのままに受け入れられたのだとおもう。彼女にとって、知っていることも知らないこともなにも関係ないのだ。ただそこにある、ということを感じられたのだろう。だから家族みんなにお礼を言えた。
やまんばもそうなりたいなあ。いざという時、みんなにお礼が言えるかなあ。よし、今のうちに言っておこう。
みんな、今までありがとうね〜。
え?今じゃずるい?
絵:雪の中のカップル/コスモポリタンカットイラスト(ズ〜っと前の作品)
2011年6月16日木曜日
やまんば畑に育てられる
やまんばは草を刈る~。へいへいほー。へいへいほー。
気ちがいおばばだよー。へいへいほー。へいへいほー。
やまんばは、今日も野良仕事。(本職やらんかいっ)
彼女のちっこい脳みそで考えついた壮大なる計画は、今年も無惨に進行中。始めて買ってみた培養土で育てたウリ科の植物、キュウリ、カボチャ、ズッキーニ。順調に育って、うひゃうひゃ言いながら畑に投入。
するとどこからともなくやって来たオレンジ色のウリハ虫ちゃんにあっというまに食い尽くされる。もはや地上にその存在をなくしてしまった野菜たち。その現実をぼーっとながめるやまんば。
「こりゃあ、どーいたことぜよ。。」
数日たつと、かつてあったキュウリのところに、ぽこんと青いものが。なんと食いつくされて消えてしまったところから、キュウリの本葉が。。。それから大きくなるにつれて、またもやウリハ虫ちゃんに全面攻撃。しかし根っこがあると言うのはこうも強いもんか。懲りずにまた葉っぱは出てくる。やまんばとしては、そこに新たに種を仕込もうとしておったのだが、ど根性なキュウリちゃんにおもわずみとれる。そしてある日、ぱたっとウリハ虫ちゃんはそこに来なくなった。で、どこに行ったかと言うと、今度はズッキーニ。ズッキーニに群がって破壊の嵐!そしてカボチャ。カボチャに群がって食い尽くす!
「すきにやってくれや。。。」
ちっこいキュウリの苗は、今ちっこい花を咲かせ、ちっこいきゅうりの実をつけはじめた。あいかわらず、ちょこちょこウリハちゃんに攻撃されつつ。。。
畑に野菜は育つが、どうもやまんばも畑に育てられている。
今まではどうやって大きく収穫しようか、どうしたらドドーンと採れるか?という事ばっかり考えていた。しかしだんだん収穫そのものよりも、彼らの変化を見ているのが楽しくなった。虫はなぜ来るのか。なぜ草は生えるのか。そして彼らと野菜との関係は?
なにかこう、ニンゲンにはわからない彼ら同士の取り決めがあるようにおもえる。ひょっとしたら、ウリハちゃんに食べられる事でその身体を鍛えているのかもしれないし、ひょっとしたら、ウリハちゃんの大事な時期にに大事な栄養をあげているのかもしれないし、ひょっとしたら、キュウリの葉に入った毒素を食べてもらっているのかもしれない。。。。ううう、わからん。。。。しかしそのわからんところが、、、、おもしろいっ!
こーしてやまんばは、畑のふしぎにとりつかれ、アリ地獄ならぬ、畑地獄にはまっていくのであった。。。。
絵:コージーミステリー表紙イラスト
2011年6月11日土曜日
母のマイブームつづき
昨日のつづき
はよう歩かんとという言葉の後ろに、私は速く歩けないという信念が張り付いている。そしてそれではイヤだ!という拒絶がある。つまり自分が、現実ある姿ではイヤだと言っているのだ。自分自身をイヤだイヤだと言い続けて暮らすのと、自分自身の欠点をそこまで気にしないのとでは、疲労の仕方が違う。彼女は四六時中自分の身体の気に入らないところを意識し続け、それに抵抗し、ハッパをかけ続けている。
「朝起きてからすぐ?」と私。
「そ。今でも朝起きてからすぐに『いや!はよう動かんと!』って言うよ」
私にはその言葉がよけいに彼女の身体を重く動かなくさせているように見える。彼女があの言葉を呪文として唱えなかったらどうなっていたのだろうとは、憶測してもしかたがない。
それよりも、それによって心が絶えず理想と現実のギャップに苦しむ事は、何を意味するのだろうか。歩きたい!という理想から、歩けない!という現実。それを起きているあいだ中、身体を動かそう、喋ろうとする瞬間にも、絶えずその「いやな」現実を見せつけられる。この心労ははかりしれない。
私は自分が自己嫌悪する事によって絶えず自分を痛めつけて気をもんで、心身ともに疲れていた自分を思い出す。彼女も心で考えるマイブームは違っていても、私と全く同じ事をやっている。
人は、たえず、自分の中で非難と正当化をくりかえしている。それは少しでも自分が成長しようとするがゆえに、自分にゲキを飛ばすことである。日本人は特に勤勉である。勤勉であるが故に、自分にも人にも厳しくなる。そして絶えず理想と現実の大きな開きを感じて暮らすことになる。
それのどこが重要なのだろうか。
人の悪いところを見て「あいつはだめだ」といい、「それに比べて私は。。」といい気分になり、あるときは「わたしはだめだ」といい、「それに比べて彼女は。。。」と言い続ける心。人はそれぞれまったくちがう最重要項目をもっている。それは生まれてきた環境、与えられてきた教え、価値観、そして経験によって作り上げて来たそのひとならではのパターン。
少なくとも私にとって、自分への自己嫌悪、自己批判は、ちょっとは成長はあるにしても、むしろ自分を小さくさせる事の方が多かった。しかし「自己嫌悪自己批判していないと、私はろくな事をしない!」と思い込んでいたので、自分への自己批判をやめる事は出来なかった。
だが、あるとき、自分の考えがいつも同じところでぐるぐる回っているのに気がついた。そしてそれに心が振り回され、どんだけ疲れ果てているのかも。まわりの事に気をもんで、もんで、もんで、便所のチリ紙のように、よれよれになっている自分の心に気がついたのであった。
「アホちゃうか。。。」
そのときから、自己嫌悪する自分を意識するようになった。自己嫌悪や自己批判が始まると、「あ、今自己嫌悪している。。」とその心を見つめるのだ。じっとその様子をうかがうと、自己嫌悪しようとする心が止まってしまう。「どーした?もっと自己嫌悪しなよ」とそそのかす。ところが、自己嫌悪はだれもいないところでやるもんで(なんかみたいに)、見られたら出来なくなるのだ。。。
それから私はあまり疲れなくなった。過去の失敗にとらわれなくなった。それと比例して、身体が疲れなくなった。
母は、あいかわらずマイブームに熱中している。
心は自動的にいつものパターンを繰り返したがる。なぜか。それが心のクセなのだ。心とはそういう風に、つねに何かにしがみついて、ここに今生きている事を実感したがっている。しかしそれがとてつもない疲労感をあたえているのだ。
はよう歩かんとという言葉の後ろに、私は速く歩けないという信念が張り付いている。そしてそれではイヤだ!という拒絶がある。つまり自分が、現実ある姿ではイヤだと言っているのだ。自分自身をイヤだイヤだと言い続けて暮らすのと、自分自身の欠点をそこまで気にしないのとでは、疲労の仕方が違う。彼女は四六時中自分の身体の気に入らないところを意識し続け、それに抵抗し、ハッパをかけ続けている。
「朝起きてからすぐ?」と私。
「そ。今でも朝起きてからすぐに『いや!はよう動かんと!』って言うよ」
私にはその言葉がよけいに彼女の身体を重く動かなくさせているように見える。彼女があの言葉を呪文として唱えなかったらどうなっていたのだろうとは、憶測してもしかたがない。
それよりも、それによって心が絶えず理想と現実のギャップに苦しむ事は、何を意味するのだろうか。歩きたい!という理想から、歩けない!という現実。それを起きているあいだ中、身体を動かそう、喋ろうとする瞬間にも、絶えずその「いやな」現実を見せつけられる。この心労ははかりしれない。
私は自分が自己嫌悪する事によって絶えず自分を痛めつけて気をもんで、心身ともに疲れていた自分を思い出す。彼女も心で考えるマイブームは違っていても、私と全く同じ事をやっている。
人は、たえず、自分の中で非難と正当化をくりかえしている。それは少しでも自分が成長しようとするがゆえに、自分にゲキを飛ばすことである。日本人は特に勤勉である。勤勉であるが故に、自分にも人にも厳しくなる。そして絶えず理想と現実の大きな開きを感じて暮らすことになる。
それのどこが重要なのだろうか。
人の悪いところを見て「あいつはだめだ」といい、「それに比べて私は。。」といい気分になり、あるときは「わたしはだめだ」といい、「それに比べて彼女は。。。」と言い続ける心。人はそれぞれまったくちがう最重要項目をもっている。それは生まれてきた環境、与えられてきた教え、価値観、そして経験によって作り上げて来たそのひとならではのパターン。
少なくとも私にとって、自分への自己嫌悪、自己批判は、ちょっとは成長はあるにしても、むしろ自分を小さくさせる事の方が多かった。しかし「自己嫌悪自己批判していないと、私はろくな事をしない!」と思い込んでいたので、自分への自己批判をやめる事は出来なかった。
だが、あるとき、自分の考えがいつも同じところでぐるぐる回っているのに気がついた。そしてそれに心が振り回され、どんだけ疲れ果てているのかも。まわりの事に気をもんで、もんで、もんで、便所のチリ紙のように、よれよれになっている自分の心に気がついたのであった。
「アホちゃうか。。。」
そのときから、自己嫌悪する自分を意識するようになった。自己嫌悪や自己批判が始まると、「あ、今自己嫌悪している。。」とその心を見つめるのだ。じっとその様子をうかがうと、自己嫌悪しようとする心が止まってしまう。「どーした?もっと自己嫌悪しなよ」とそそのかす。ところが、自己嫌悪はだれもいないところでやるもんで(なんかみたいに)、見られたら出来なくなるのだ。。。
それから私はあまり疲れなくなった。過去の失敗にとらわれなくなった。それと比例して、身体が疲れなくなった。
母は、あいかわらずマイブームに熱中している。
心は自動的にいつものパターンを繰り返したがる。なぜか。それが心のクセなのだ。心とはそういう風に、つねに何かにしがみついて、ここに今生きている事を実感したがっている。しかしそれがとてつもない疲労感をあたえているのだ。
2011年6月10日金曜日
母のマイブーム
はたから見たら「アホかいな」と思う事でも、本人にとってみれば、人生通じての一代マイブームとなっていたりする。
やまんばの母は、自分がしゃべったり、歩いたりすることを「遅い」と思い込んでいる。これが彼女の人生最大のマイブーム。
朝起きた瞬間から、動作の鈍い自分に
「いやっ、はよう動かんといかん」と自分のお尻を叩く。
電話がなる。うまく喋られない自分に
「いやっ、はようしゃべらんといかん」とハッパをかける。
これが起きているあいだ中、心の中で喋っている言葉。ひょっとしたら夢の中でも?それが365日。物心ついてからだから、かれこれ、70年間近くになるか。
彼女が小さい時、祖母に言われたのかもしれない。学校でお友達に言われたのかもしれない。そして職場で上司に言われたのかもしれない。「あなた、おそいわねえ」と。
プライドの高い彼女には、その言葉は心に強く突き刺さった。そして人と同じように速く歩こう、速く喋ろう!と自分に言い聞かせ始める。その日からその言葉は彼女の呪文になった。
それは別な言い方をすれば「保険」でもある。そう自分にハッパをかけている間は、まだまし。ハッパかけなくなると、そりゃあもうあんた、ずるずるべったりののろのろばばあになる、そう思い込んでいる。だからつねに「はよう動かんと」「はようしゃべらんと」と保険の呪文を言い続けるのだ。
3年ぶりに母に会うと、彼女は全く動けなくなっていた。立ち上がるにもそこらにしがみつきながらよれよれとおぼつかない。そして台所まで歩くにも、壁、タンス、柱、テーブル、椅子。すべてのものにしがみつきながら歩く。台所に立つ間も自分の身体を支えきれないかのように、たえずゆらゆらとゆれている。
彼女は病気ではない。何度も医者にいき、確認している。骨はと言えば、医者もびっくりする40代の骨密度。どこの医者にいっても、誰に言わせても「あなたは単に歩くだけ。一日15分だけ歩きなさい。それだけで十分」心配になって医者に行くたび、そういわれて帰って来ては、私に電話する。
「私15分歩くだけなんだって~」
とうれしそうだ。こっちはうれしくもなんともない。何度も聞いて来た。どーせ、歩きゃしない。
じゃあ、「はよう歩かんと」という呪文は彼女の人生に効き目があったのだろうか。その呪文を唱えないと、今頃もっとひどい状態であったのだろうか。それはだれにもわからない。
私はこの言葉を子供の頃から聞かされていた。子供心に、その言葉が逆に彼女を呪縛しているように見えた。親子3人で道を歩く。はじめは3人一緒に家を出るが、次第に両親の距離があいていく。2メートル、5メートル、20メートル。。。子供の私は、父と母の間をいったりきたりした。母は距離があけばあくほどあせっていた。そしてなおの事足がもつれた。
つづく。
絵:中国のお急須 わたしは急須ファンである。
2011年6月7日火曜日
何かが自分を救ってくれる?
薬と肥料は似ている。
化学薬品は、即効性がある。
化学肥料も、即効性がある。
漢方薬や民間療法は、遅効性である。
有機肥料も、遅効性である。
どちらもゆっくりとじんわりと効く。
漢方薬や民間療法、有機肥料は、化学肥料や化学薬品とは違い、あからさまな副作用はないから安心である。。。らしい。(漢方薬はちょいと副作用がある)
緊急の場合には科学的なものはとても有効。しかし副作用の多いものを「使い方次第」と言う名のもと、長く続ける必要があるのだろうか。一時期の重い症状が薄らいでくるなら、今度は漢方薬、そして民間療法に移行していくという手はある。だがそれでも完治しないかもしれない。なぜなら、元々その病いを作ったのは、だいたいにおいてストレスから来ているものだ。だとするなら、最終的には、その人の心に抱えたものを解きほぐしていく事がだいじじゃないだろうか。
民間療法やって、自然農の野菜を食べる。それで人は元気になる?
けっきょく、それも薬と同じ感覚だ。何かすがっている。
ちまたにありとあらゆる「これが効く!」というものがはやり続けるのは、人は何かが自分を救ってくれる、と信じているからだ。しかし納豆や、アガリスクや、バナナや、乳酸菌や、紅茶キノコがほんとうに救世主なら、今の日本人はここまで病気がちではないはずだ。たいていはしばらくやって、だんだん飽きてきて、
「効かないわね。。。最初は効いたのに。。」
といいつつ、テレビでまた新たな流行を見つけては
「あ!これいい!」
とスーパーに走るのである。
たぶんこう言う事だ。
人は新しいものの使い始めは、心が高揚する。それはテレビや雑誌で与えられたイメージを自分の中で再現できるからだ。だから心が活性化して生き生きとし、身体の調子も良くなる。これは恋愛が成就した瞬間と似ている。最初のうちは心が高揚して元気はつらつだ。しかしだんだん相手の事が見えてくると倦怠し始める。紅茶キノコとの恋愛もだんだん飽きてくる。すると心が活性化せず、また同じ身体の調子にもどる。
「やっぱりこれ、ちがってたのね。。。」
と、ため息をつきつつ、うつろな表情でテレビを見ていると
「奥さん!やっぱりこれですよ!」
と新しいものが登場する。
「今から30分以内にお電話を!もれなくお得が着いてきます!」
そしてまた新しいものに飛びつく。。。の、くりかえし。
これがだめならあっち、それがだめならこっち。そうやってぐるぐる旅をし続ける。
これは宗教も似ている。心のよりどころをありとあらゆるセミナーでほぐしてもらいにいく。しかしすっきりしない。だからうろうろ旅をする。そしてあまりのきつさに心療内科に通う。だがそれも薬というものに頼る事になる。長く飲めば、やがて身体の調子も悪くなるのかもしれない。そしてまたあらたな薬をもらうことになるやもしれん。
結局のところ、その悩みは自分の中の、超個人的な問題(といっても実は心の習慣)にふりまわされているだけのことなのだ。だから自分が何を怖がっているのか、何を嫌っているのか、なぜそれを怖がるのか、なぜいやがるのか、その心の動きとじっくりかかわりあうことだけなのだ。それを見ないで、外にばかり答えや救いを求めても、最初はオッケーでもそのうち倦怠がやって来て、もとのもくあみ。
人はたいてい、同じパターンの中でモノを考えている。パブロフの犬のように、「肉」を見たら「よだれ」がでる、くらい単純なパターンの中で、心を振り回されている事に気がつく事だ。
何にいつも反応する?
動揺するものは何?
いつもなにを心でぶつぶつ言っている?
誰が気に入らない?
なんで気に入らない?
その根拠は何?
じゃあ、その価値観はどこから来た?
その価値観は絶対的なものなの?
時代とともに変わってない?
心は、とてつもなく可能性を秘めていて、そしてまた巨大な問題も作り出して来るのだ。
化学薬品は、即効性がある。
化学肥料も、即効性がある。
漢方薬や民間療法は、遅効性である。
有機肥料も、遅効性である。
どちらもゆっくりとじんわりと効く。
漢方薬や民間療法、有機肥料は、化学肥料や化学薬品とは違い、あからさまな副作用はないから安心である。。。らしい。(漢方薬はちょいと副作用がある)
緊急の場合には科学的なものはとても有効。しかし副作用の多いものを「使い方次第」と言う名のもと、長く続ける必要があるのだろうか。一時期の重い症状が薄らいでくるなら、今度は漢方薬、そして民間療法に移行していくという手はある。だがそれでも完治しないかもしれない。なぜなら、元々その病いを作ったのは、だいたいにおいてストレスから来ているものだ。だとするなら、最終的には、その人の心に抱えたものを解きほぐしていく事がだいじじゃないだろうか。
民間療法やって、自然農の野菜を食べる。それで人は元気になる?
けっきょく、それも薬と同じ感覚だ。何かすがっている。
ちまたにありとあらゆる「これが効く!」というものがはやり続けるのは、人は何かが自分を救ってくれる、と信じているからだ。しかし納豆や、アガリスクや、バナナや、乳酸菌や、紅茶キノコがほんとうに救世主なら、今の日本人はここまで病気がちではないはずだ。たいていはしばらくやって、だんだん飽きてきて、
「効かないわね。。。最初は効いたのに。。」
といいつつ、テレビでまた新たな流行を見つけては
「あ!これいい!」
とスーパーに走るのである。
たぶんこう言う事だ。
人は新しいものの使い始めは、心が高揚する。それはテレビや雑誌で与えられたイメージを自分の中で再現できるからだ。だから心が活性化して生き生きとし、身体の調子も良くなる。これは恋愛が成就した瞬間と似ている。最初のうちは心が高揚して元気はつらつだ。しかしだんだん相手の事が見えてくると倦怠し始める。紅茶キノコとの恋愛もだんだん飽きてくる。すると心が活性化せず、また同じ身体の調子にもどる。
「やっぱりこれ、ちがってたのね。。。」
と、ため息をつきつつ、うつろな表情でテレビを見ていると
「奥さん!やっぱりこれですよ!」
と新しいものが登場する。
「今から30分以内にお電話を!もれなくお得が着いてきます!」
そしてまた新しいものに飛びつく。。。の、くりかえし。
これがだめならあっち、それがだめならこっち。そうやってぐるぐる旅をし続ける。
これは宗教も似ている。心のよりどころをありとあらゆるセミナーでほぐしてもらいにいく。しかしすっきりしない。だからうろうろ旅をする。そしてあまりのきつさに心療内科に通う。だがそれも薬というものに頼る事になる。長く飲めば、やがて身体の調子も悪くなるのかもしれない。そしてまたあらたな薬をもらうことになるやもしれん。
結局のところ、その悩みは自分の中の、超個人的な問題(といっても実は心の習慣)にふりまわされているだけのことなのだ。だから自分が何を怖がっているのか、何を嫌っているのか、なぜそれを怖がるのか、なぜいやがるのか、その心の動きとじっくりかかわりあうことだけなのだ。それを見ないで、外にばかり答えや救いを求めても、最初はオッケーでもそのうち倦怠がやって来て、もとのもくあみ。
人はたいてい、同じパターンの中でモノを考えている。パブロフの犬のように、「肉」を見たら「よだれ」がでる、くらい単純なパターンの中で、心を振り回されている事に気がつく事だ。
何にいつも反応する?
動揺するものは何?
いつもなにを心でぶつぶつ言っている?
誰が気に入らない?
なんで気に入らない?
その根拠は何?
じゃあ、その価値観はどこから来た?
その価値観は絶対的なものなの?
時代とともに変わってない?
心は、とてつもなく可能性を秘めていて、そしてまた巨大な問題も作り出して来るのだ。
2011年6月5日日曜日
うちでレセプションパーティ
きのうは、うちに大勢の人が集まった。
おとついから始まっている「ふじだな珈琲」での海沼武史写真展「breathing- 吐息ノ艶ヲ愛デル」のレセプションパーティ。今回は額装ディレクター中村明博氏とのコラボである。
額と写真との重要性はこれまであまり話題にされた事はない。しかし中村氏はそれをいきなり公にした。彼は、単なる写真と額というあたりまえにある関係を、お互いがお互いを引き立てあう異次元のモノに変えてしまう事の驚きを与えてくれたのだ。
そして海沼は実験した。
「ウチの家中に写真を飾ってみよう」
二人は壁という壁に(アメリカ人の家みたいに)、写真を飾った。
私は基本的に壁に絵をかけるのはきらいであったので、最初はどうなるかと心配した。これがなんと、全く違和感がない。うるさくもない。むしろ部屋の中にいくつもの窓があって、そこからあらゆる風景がのぞいているかのようだった。二人のコラボのせいである。それら自身が放つ空間性がみごとに生活の中に別の次元を生み出していたのだ。
レセプションパーティには、額を作って下さった額職人の方もわざわざ遠いところ、おいでくださった。厳しい目をした緊張感のある方だった。これからこの試みがどんなふうに展開していくのか、全く未知数である。それがまた心を振るわせてくれる。人は引かれた線路の上を走るのも好きだが、何もない荒野を進むのはもっと好きなのだ。
やまんばといえば、ひたすらへたくそな料理を作ってはばたばたとすごしていた。パーティの最中にデニッシュ生地の食事パンを作り続けるのは、ちと高度すぎた。反省。
なによりもみんなが、お花やケーキやお酒をもってきてくれたおかげでずいぶんと華やいだパーティになりました。
みなさま、遠いところ、高尾までお越し下さいましてありがとうございました。
絵:孫天狗、黄昏時にケータイする
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