お正月は究極の日本人文化が集約されている。
そしてまた、日本人の固定観念の集大成といっても過言ではない(おおげさだな)。
お正月は神様を家にむかえるために、きれいでなければいけない、うつくしくなければいけない、掃除しなければいけない、飾り物をしなければいけない、おせち料理はこれこれこーゆー物を入れておかねばならない、云々。
いいかえれば、もしそれをおこたると、その一年ろくな年にならないという法則(オドシ)が隠れている。
だから人々はこのクソ寒い中を掃除し、買い物に走り、大騒ぎで新年に向けてフンソーする。
このやまんばもごたぶんにもれず、そのオドシにのっかって、おととしクソ寒い中を風呂掃除をしてぎっくり腰になった。
もうそのオドシには乗らないのだ。
ことのはじまりは「こーやったら、たのしいから!」だったんじゃないか。
たのしかったもんだから、「去年のあれ、またやろう!」ってことになった。
日本人は工夫が大好きだから、
「じゃあこれは?」
「うん、いいね!」
と、次々にいろんな物を考案し、ついにダジャレもどきの料理(マメマメしくとか、よろ昆布とか、おふざけもここまでくれば、たいしたもんである)が出現し、それが膨大な量になってえんえんと続いてしまった。
「じゃあこれは?」
「うん、いいね!」
と、次々にいろんな物を考案し、ついにダジャレもどきの料理(マメマメしくとか、よろ昆布とか、おふざけもここまでくれば、たいしたもんである)が出現し、それが膨大な量になってえんえんと続いてしまった。
いつのまにかそのダジャレが「伝統」などとゆー、おもくるしーもんになり、形ばかりを重んじるよーになってくる。
するとそうなってないと、「いいお正月がむかえられない=ろくな年にならない」法則を生む。
それ、勝手にシンドバッドでね?
どこのだれがお正月が
「きれい=いい年」
「きたない=悪い年」
と決めたのか。神様が決めたのか?宇宙の法則か?
ではどこからどこまでが「きれい」で、
どこからどこまでが「きたない」のか。
これだって、線引きしようがないではないか。
宇宙の法則はなんてむずかしーのだ!
とかなんとか。
よーするに、自分で自分の首絞めてんだな、とやまんばは考える。
もとの「たのしいから!」に戻せばいーだけの話だ。
神様だって、苦しんで自分のために準備されるよりは、おもしろがってやっている人のおうちにやってくるほーが、うれしいにきまっている。
自分で楽しんで、自分でオリジナルな伝統をつくっちゃえばいーのだ。
んじゃあ、やまんばのお正月の準備は?
たとえば風呂掃除。
11月頃からすこしずーつ、あそこのかべ、ここの洗面台、って、お風呂に入りながら洗ってた。
ひとかべつづだから、気が楽。化学薬品使わないので、はだかでできる。お湯だけでたいてい落とせる。これは石けんなし生活になってからかもしれない。かべのヨゴレは、石けん垢じゃねえか?
あとの掃除は、気が向いたら。やりたいっておもうときにやる。できなかったら、それでよし。自分の直感に従う。したがわなくてもそれでよし。
料理ももちろん、きぶん。作りたいなら作るし、作りたくないなら作らない。
「やらなきゃ」をもうやめにしたら、下から少しずつ小さな「なんか、やりたいな~」がわいてくる。
それが本来の衝動なのではないだろうか。
「ねばならない」に隠れて見えない、ほんとの自分の気持ちを見つけていこう。