近所によくおしゃべりする4歳の男の子がいる。やまんばのことを「くつしちゃん」とよぶ。なんやら、くつ下みたいではないか。「つくし」とうまく発音できないらしい。
きのうも向こうの方から
「くつしちゃ~ん、&%’”#’*+`?&%#$。。。。」
と、何かしゃべっているが、遠過ぎて聞こえない。
近くに来てやっとわかった。ステキな石を見つけたのだ。
「うわ、いいねえ~」
「うん。いいでしょ。これねえ、ひろったの」
よく見ると原始人がナイフに使っていたようなカタチをしている。
「ひょっとしたら、大昔の人がこれで料理作ったりしたのかもしれないよ」
「うふふ~」
とってもうれしそうだ。
ウチに持って帰って使い終わった歯ブラシで磨くそうだ。
先日も道で話をした。
「あのねえ、○○くんってかっこいいんだよ」
「へえ、○○くんってかっこいいんだ。君もかっこいいんだよ。知ってる?」
「うん!ぼくもかっこいいよ!」
そのとき、やまんばはドキッとした。
そうなのだ。
あの頃の子どもたちは、自分が大好きなのだ。自分のすることなすこと愛している。
だけどだんだんきらいになっていく。
それは神と同じくらい尊敬する身近な存在に、いけない、まちがっている、劣っている、失敗している、と畳み掛けるよーに言われつづけるからだ。
親は人様に迷惑かけないように、後ろ指さされないように、そして立派な人物になっておくれという熱いおもいで教育を施す。この世でみんなと生きていくための必須科目。
でもたいてい、もう一方のフォローがない。
でもたいてい、もう一方のフォローがない。
するとだんだん自分ってダメだとしか思えなくなるのだ。
思春期になってそれは頂点に達する。おれってイケテナイ!!!
そのインプットはただインプットされただけだと気づかない限り、おそらく死ぬまでもっていく。
おばさまやおじさまが人様の目を気にしてビクビクしながら生きてるのを見るのは、未来の自分の姿を見るようだ。
しかし自分がダメだっておもってきたのは、外の基準にもとづいたものだったからだ。外の価値観と比較して自分を見ていただけだ。
その外の基準は、人に迷惑にならない程度に使えばいい。
もう1つ別の基準をもつのだ。自分だけのオリジナルの基準をひそかに作る。いや、思い出すといってもいいかもしれない。すると「自分かっこいい」って思えるんだ。「うん、いいぞ、あたし」ってね。
そのオリジナルの基準が作動しはじめると、やまんばも彼のように戻れるかな。
自分が大好きだったあの頃のあたしに。
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