先日の続き。
何もわからないということは、
何が正しいか間違っているか、判断できないということだ。
私たちはこの世界のことは知っていなければいけないと思っている。
知ってて当然。知っているのが大人。
だけど世界を見渡してみると、はたして知っていることって本当にあるのだろうか。
あることが世間を騒がせ、その解決方法を探す。
これがいい解決法だというかと思えば、まもなくして違う方法も出てくる。
そして今度はその問題自体に大きな疑問を投げかける説まで出てくる。
そんな一個の状況さえも、何が正しくて何が間違っているかわからないのだ。
知ってて当然は、どこへ行った?
知れば知るほどわからなくなる判断。
公のものだけでなく、個人的に起こる問題に関してもそうだ。
私たちはわかっているはずだという大きな呪いにかけられているのかも知れない。
コースは判断を自分でするなという。
この世界を知った気になって、自分でやろうとするなという。
この世界は秩序立った世界ではなく、混乱した世界だ。
そんな世界に正しい答えなどあろうか。
そしてこの世界は実在などしていないと断言する。
このクレイジーな考えに共感するほど、私にはいろいろ身に覚えがあり、
自分でやろうとすることや、自分があたりまえに使っていた常識を恐る恐る放棄していった。
判断は瞬時に起こる。
息するように判断している。
その判断が起こるわけは、そこに問題を見つけているのだ。
これは正しい。これは間違っていると。
例えば、体のどこかがチクリと痛い。
「ん?これはなんとか病の前兆なのではないか?」
チクリと痛いことをいけないことだと判断している。
そしていけないことは治さなきゃと判断している。
そしてそれはどこのお医者さんに、誰が一番いいのか?と判断している。
一つの出来事に無数に判断が起こっている。
判断が起こると、つまり問題だととらえると、
それを解決しなければいけないというふうに自動的に心が動く。
そしてその解決法に心は没頭し始めるのだ。
大人の私は、自分一人でそれを解決しなければいけない。
山ほどある情報の中でどれが一番正しくて、
どれがいちばんの解決方法であるか正しく判断をしないと、
私はとんでもない人生を歩んでしまう。。。
という恐れが私の中でドカンと居座ることになる。
私はだんだんとその自動反応が苦しくなってきた。
この世界があるという前提に立って、この世界の中で解決法を考える。
水平の考え。AかBかという選択。
お金を稼ぐか稼がないか。路頭に迷うか必死で生きるか。
そのどっちにも行かない考え。それが判断しないということだった。
AかBかという選択は自我とともに考えている。
でも判断しないというのは、自我とともに考えないということ。この世界に没頭しないということ。
その判断は私がするのではなく、この世界がなんであるかを知っているものに委ねるのだ。
そのものとともに判断する。その時私は自我とともにいない。
自動的な判断が起こった時、
「ん?これはなんなのか私にはさっぱりわかりません」
といってみる。
どこかがふわっと軽くなる。
心がこの世界にベットリくっついていない。
私が判断するもしないもなく、ことは勝手に動いていた。
ただ私の心の中が、オロオロ、バタバタ、大騒ぎしていただけだった。
自分でなんとかしようとすればするほど、ことはややこしくなっていった。
自分で判断をしないとは、自由になることだった。
私がこのちっぽけな体の中に収まっているものだとも思えなくなっていく。
大きな何かとともにいる香りが漂ってくる。
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