2022年1月15日土曜日

なんか妖怪?

 


思えば私は「歩く罪悪感女」だった。


自分の作品に罪を見、自分の通帳に罪を見、自分の無名さに罪を見、部屋の汚さに罪を見、自分の体に罪を見、自分の行動に罪を見、自分の考えに罪を見てきた。


歩くほどに罪が私にのしかかってきて、生きていること自体が罪にしか思えなかった。


コースに出会って、その苦悩の正体を知る。

頭の中で大声で訴える、私を罪びとにする声は、「私」からのものではなかった。


この世界を作り上げた張本人である狂った心/自我からのものだった。


では、その心の中でささやく声を聞くものは誰だ?

その声を受け取って、その気になるものは誰だ?

その声がいつの間にか自分の考えだと思い込む、その「私」とは誰だ?


私はその「聞いている側」に立ち、心に聞こえるその声を聞いた。


改めて冷静にその声を聞くと、ほとんどが自分を責め立てる声だった。

自分を責める苦しさのあまり、今度は他人を責め立てる。

そしてその他人を責め立てる自分をまた呪う。。。

ずっとその声は正しいと思い続けて来た。

結果、歩く罪悪感女になったのだった。



それは後から作られたもの。後からペタペタと塗り重ねられたもの。

ではその元は一体なんなのだ?聞いている側とは一体なんなのだ?



私は罪というペンキで塗り固められた、原形が何かわからないものから、

少しづつ罪のペンキを剥がしていった。

ペンキが一色一色剥がされると、それに伴って別の風景が見え始めた。

この世界が重く固く動かしがたいものではなくなっていく。

徐々に消えていく罪悪感。

それに反して軽くなっていくこの世界。。。


出来事は、

「ほら。この世はあるだろう?こういうひどい世界が実在するのだ」

というふうに、狂った心が証明したがるが、


正しい心は、

「それが必要かい?そんな世界が君が求めるものなのかい?」

と、そこからの脱却へのきっかけとして使う。


不快感を感じた時、そこには必ず隠し持っている信念がある。

こうであるべきという信念だ。

私は自問する。

「その考えは私に必要?その信念があるから、私はこんなに苦しんじゃないの?

ならそれを今聖霊に渡して、訂正してもらおう」


私は自我を選択せず、この世界を超えたものを知っている叡智である、正しい心/聖霊の考えを選択していった。

それはどんな叡智かわからない。それでももう自我とともに生きるのはイヤだ。



罪のペンキが剥がされていくと、

だんだん見えてきたものは、形のないものだった。


自我の声を聞いていた「私」には形がなかった。


その自由ときたら!




今も肉眼で見えているこの世界。

けれども「どうだ!この世界があるだろう!」

と、迫ってこなくなった。


未来も過去も気にせず、

今にのんびりする妖怪「形のない私」(どんな妖怪やねん)。



え。見えてるって?



絵:お金を湯水のように生む妖怪(女神?)


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