思えば私は「歩く罪悪感女」だった。
自分の作品に罪を見、自分の通帳に罪を見、自分の無名さに罪を見、部屋の汚さに罪を見、自分の体に罪を見、自分の行動に罪を見、自分の考えに罪を見てきた。
歩くほどに罪が私にのしかかってきて、生きていること自体が罪にしか思えなかった。
コースに出会って、その苦悩の正体を知る。
頭の中で大声で訴える、私を罪びとにする声は、「私」からのものではなかった。
この世界を作り上げた張本人である狂った心/自我からのものだった。
では、その心の中でささやく声を聞くものは誰だ?
その声を受け取って、その気になるものは誰だ?
その声がいつの間にか自分の考えだと思い込む、その「私」とは誰だ?
私はその「聞いている側」に立ち、心に聞こえるその声を聞いた。
改めて冷静にその声を聞くと、ほとんどが自分を責め立てる声だった。
自分を責める苦しさのあまり、今度は他人を責め立てる。
そしてその他人を責め立てる自分をまた呪う。。。
ずっとその声は正しいと思い続けて来た。
結果、歩く罪悪感女になったのだった。
それは後から作られたもの。後からペタペタと塗り重ねられたもの。
ではその元は一体なんなのだ?聞いている側とは一体なんなのだ?
私は罪というペンキで塗り固められた、原形が何かわからないものから、
少しづつ罪のペンキを剥がしていった。
ペンキが一色一色剥がされると、それに伴って別の風景が見え始めた。
この世界が重く固く動かしがたいものではなくなっていく。
徐々に消えていく罪悪感。
それに反して軽くなっていくこの世界。。。
出来事は、
「ほら。この世はあるだろう?こういうひどい世界が実在するのだ」
というふうに、狂った心が証明したがるが、
正しい心は、
「それが必要かい?そんな世界が君が求めるものなのかい?」
と、そこからの脱却へのきっかけとして使う。
不快感を感じた時、そこには必ず隠し持っている信念がある。
こうであるべきという信念だ。
私は自問する。
「その考えは私に必要?その信念があるから、私はこんなに苦しんじゃないの?
ならそれを今聖霊に渡して、訂正してもらおう」
私は自我を選択せず、この世界を超えたものを知っている叡智である、正しい心/聖霊の考えを選択していった。
それはどんな叡智かわからない。それでももう自我とともに生きるのはイヤだ。
罪のペンキが剥がされていくと、
だんだん見えてきたものは、形のないものだった。
自我の声を聞いていた「私」には形がなかった。
その自由ときたら!
今も肉眼で見えているこの世界。
けれども「どうだ!この世界があるだろう!」
と、迫ってこなくなった。
未来も過去も気にせず、
今にのんびりする妖怪「形のない私」(どんな妖怪やねん)。
え。見えてるって?
絵:お金を湯水のように生む妖怪(女神?)
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