私は自分一人で解決はできないんだ。。。
そう気がついたのは、長い長い間ずっと自分一人で物事は解決しなければいけないと思い込み、それをやり続けた結果、どこにもいけない状態に入った時だった。
一瞬それが来たというよりは、ちょっとづつそっちに流れていったというべきか。
いや。。これ自分で判断できると思っていること自体が間違っているんちゃうか。。。?
ちょちょ。。。マジでこれ、わかってないといかんって思ってるけど、どだいわかるわけないやんか。
ってことはよ。。これ自分で解決できる、、、、わけないだろ!!!
みたいな。
そんなふうにグラデーション的に考えが変わっていったのであった。
自分一人で解決できるというのは、人を頼りにしていいのだという話ではない。
もともとその解決方法を人間レベルで考えるのは無理だという話なのだ。
(宇宙人に聞くか?)
人間レベルとは、つまり自我のレベルってこと。
そもそも問題解決という言葉自体が、自我の話。
問題がそこにあるということはそこに恐れがあるということ。
恐れがあるからその恐れを解決させるために別の恐れを持ってきて解決させるようなもんだ。
「あんたなんかまだマシよ、私なんかもっとひどい状態なんだから」
などといって慰められても、なんの慰めにもならないみたいなもんだ。
せいぜい「私の悩みなんてまだまだ小さい」
といって、辛さを無理やり引っ込めさせ、無かったことにするだけだ。
(どーゆうたとえ?)
その自我が自我の中でいくら解決を試みようとも、
あっちがダメならこっちと、つるつる横滑りしているだけなのであった。
それを全く違う視点から見ているのが聖霊の視点。
イメージ的に言えば、二次元の視点から三次元の視点に変わるというか、縦軸というか。
自我の視点が横軸なら、聖霊の視点は縦軸。垂直な流れ。
だから人間レベルの視点が上から眺められるらしい。
そういう視点だから、問題という物自体が見えない。
「問題って何?」ってなレベルなのだ。
つまり「恐れ」など知らない。
自我が恐れでできているなら、聖霊は愛でできている。
その愛とは、私らが考えるそんじょそこらのチャラい愛とはワケが違う。
その視点を持とうって話なのだ。
「それっていいじゃん!では!」といって簡単に持てるわけではない。
お金を払って手に入れるものでもない。
意欲。そう。意欲なのだ。
なぜかというと、私はひたすらにひたすらに自我を尊敬して生きてきたのだ。
自我がおっしゃることなら間違いない!自我様のいう通り!と、自我教に邁進してまいりました。
骨の髄まで自我まっしぐら。(どっかで聞いたような。。。)
そう簡単に聖霊まっしぐらに移行できない。
だって、つるつる横滑りばっかりしてきたんだもーん。
じゃあ、聖霊の視点とはどんなものか?
わからん。わかるわけがない。上から見たことないのだもん。
上から目線で観察ぐらいならできるよ。冷めた視点っていうか、淡々とただ見る視点。
でもそこには何の喜びもなかった。
一瞬そこなのかな?と思って見たことはあったが、それは違っていた。
なぜかというと、そこに別の視点は入ってこなかったからだ。
別の視点とは、別の見方。見え方が変わる。
苦しみでもがいている時、
「お願いです。聖霊さん。あなたのものの見方を教えてください!!!」
と泣いてすがった。
目の前に起こっている出来事に動揺してとてもきつい時、
「私は今自我の視点でこれを見ています。とてもつらいです。
どうか聖霊さん、あなたの視点を教えてください!
あなたにはこれがどう見えているのですか!?」
心の中で必死に訴えた。
そうやって動揺するたび、別の視点を見せて欲しいと懇願し続けた。
そしてある時、ふと別の考えが浮かんだ。
これがこうだと信じていたものが、そうじゃなかったらどうする?
こうあるべきが、こうあるべきでもなんでもなかったらどうする?
え?
その時今そこに見えているものに対する判断や解釈が、
突然別の解釈に変わっていくのを見た。
パタパタと見えかたが変わっていき、
それまで問題だと思っていたものが、問題じゃなくなっていった。
聖霊の視点かどうか、明らかにわかることがある。
聖霊の視点がやってくる時、心がぱあっと明るくなる。軽くなる。広がる。楽になる。
なんだ、そういうことか!と物事の捉え方が逆転して明白になる。
あるいは突然心が変わる。
それまで重苦しかった心が、いつの間にか軽くなっている。
たとえ目の前にある現象が不快なものであっても、
その不快に振り回されなくなる。
それはそれとして置いて置けるようになる。
ある時、とてつもなく惨めな気持ちになったことがあった。
その時も「どうかこの惨めな気持ちを別な視点で見せてください」とお願いした。
そしてふと
「あれ?この惨めな気持ちを選ばないこともできるんだ」
そう思った瞬間、一瞬のうちにその惨めな気持ちが消えていた。
選択なのだ。
私たちはいつでも選択できる。
悲しみを選ぶこともできれば、喜びを選ぶこともできる。
心をよく観察することだと思う。
現象を観察するよりも、心の動きをよく見ていること。
その心を咎めずにただ見る。
心が動揺しているのは、目の前に起こった現象に影響されて動揺していると思っているので、この現象をどうにかして取り除いたら、この動揺は消えると私たちは信じ込んでいる。
でも現象が動揺の原因ではなく、ほんとうは心が原因。
心が作り上げている。だからいくら現象をいじっても消えるわけがない。
心の力は偉大だ。
自我とともにいた混乱した世界から、
聖霊とともに明るい世界へと歩いて行きたい。
絵:「ケヤキの道」
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