2022年12月20日火曜日

苦労は買わなくていい

 


私たちの無意識の中に、罪というものがある。

それは隠れ潜んでいて、表に現れてこないように、ひた隠しにされている。


苦しみは、その罪がゆえに与えられた罰だ。


罪と罰はくっついている。


苦あれば楽あり、苦労は買ってでもしろとは、

美しい教訓とされているが、

その考えの下に、罰を受ければ、刑が軽くなるという思いをはらんでいる。


だから私たちは無意識に苦しみを選んでいる。


幸せすぎて怖い。という思いも、

幸せで有頂天になったら、いつかバチが当たる、

とんでもないしっぺ返しに会うかもしれない!

という恐れが、そう言わせている。


つまり私たちは

「幸せになるにはほどほどに。苦労は買ってでもしろ」

という教訓の中で生きていると言えるだろう。


つまんねえ~~~(笑)




でも私はずっとそう信じてきた。

苦労しさえすれば、きっといつか良いことがやってくる!と。


そしてめちゃ苦労して、ほんのちょっぴりご褒美がもらえて、有頂天になって、

その直後「あ!ヤバイ!このぐらいにしておこう。そうじゃないと、しっぺ返しに会う~」

といって、またちっこくなって、自ら苦労を買いに走るのだった。(コンビニじゃねえし)


さて。この苦労という刑。

なぜ必要かといえば、罪を犯したなら、刑という罰が与えられるからだ。


一体何の罪が侵されたのかはわからないが、私たちは罪がある前提になっているので、

苦労という名の罰を受けなければならない。


刑を終えると、晴れて出所できるはず、、、なんだけど、

どうもそうでもない。


晴れ晴れした気分になるのは一瞬で、また次の刑がやってくる。

え?私、一体いつ罪を犯した?




人は何か嫌なことが起こった時、


「え?私なにやった?なんかとんでもないことした?

あれかな?ああ、あれかもしんない!やっば~~~~~。あんなことしなきゃよかった!」と、

自分の罪をあれこれ探すんではなかろうか。(え?私だけ?)


つまり罰が下るのは、罪を犯したからだと思っているので、あれこれ考えを巡らす。


そして程よく罪が暴かれたところで(笑)、苦労という刑を粛々と受け入れるのだ。




しかーし!

よく考えたら、この刑、一体いつ終わるのだろう?

すべての罪が晴れて出所できるのは、この肉体を離れた時?


ということは、この肉体自体が、牢獄っていうことになる。


私は知らないうちに罪を犯し、そして苦労という刑を受け続ける人生。。。


ほんまかいなー!


おかしくね?

なんかおかしいよ。





そもそもその罪をそそのかすのは誰だ?

苦労をしろと促してくる、そのアイディアの元はなんだ?


声だ。そのそそのかす奴は頭の中にいる。


「ああなったらどうする?」

「それでいいのか?本当に。。。。」

「ああ、おしまいだ。なんてえことをしでかすんだ、お前!」



それを聞いた私たちは、

「ひっええええええええ~~~~~~~っ!

どうしよう、どうしよう、ああ、どうしたらいいの、、、?」

と、その声に助けを求める。


すると、

「それはだなあ~。。。」

と、その声は私たちに、さも親切心で言っているかのように、案を教える。


その答えは、最初はいい感じだけど、よくよく聞いていると最後は、

「お前が苦労して死ねばいいだけさ」というところに落ち着く。


それ、本当に私たちの味方なんだろうか。


その声を疑ってみることはできないだろうか。

どう見ても破壊的な方向にしか持っていかない、その大きな声を。


お前には罪があると言い続け、

「あ!今罪を犯したな!

ではお前に刑を言い渡す!苦労100回!」

と。


これ、きりがない。


もう苦労は買わなくていい。

幸せは思う存分味わえばいい。



そして苦労しろと促してくるその声を疑い、
その声を赦し、

それをそっくりそのまま

「もうこんな考えいりません」と聖霊に渡し、

訂正してもらって、ほっこりしよう。



コンビニで苦労は買わなくていい。


コーヒーとドーナツを買おう。





絵:「こっちだよ」


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