「起こることが起こっている」
この言葉は、目の前で起こっていることに翻弄される私たちの心を鎮めてくれる。
ただ起こることが起こっているだけなのだから、
それをそのままに、流れ行くままに見ているだけで良い。
そう思わせてくれる。
出来事が起こり、それに動揺するのもまた起こり。
その心の焦りが、次の行動に移させるのもまた起こり。
だからそのまま、起こるままにさせておくが良い。
それが静観することであり、心の平安をもたらす。
「起こっているけど、起こってない」
これもまた心を安心させてくれる。
目の前に起こっているかのように見える世界は、
一見起こっているかのように見えるけれども、
実は何一つ起こってはいない。なぜならこの世は幻だから。
起こっているけど、起こってないのだから、ただ起こるままにさせておく。
心が動揺するままに、心配するままに、恐れを抱くままにさせておくことが、一番の平安。
観察者の意識でそれを眺める視点で、
ただそれを川の流れを眺めるようにただ眺めるだけで心は平安の場所に居られる。
私もこの言葉を聞いたときは、ホッとした。
そうか。もういいんだ。ただ起こることが起こっているだけなのだから、何もやりようがない。
それにこの出来事は、起こることが起こっているのだから、私の責任ではない。
だから起こったことに責任は取らなくていいんだ。
淡々とその時起こったことに対処していけばいいんだと安心した。
でもだんだん苦しくなってきた。
けどこの苦しさも起こってるだけなのよね。。。とは思えなくなってきた。
そのうち、どうしてこんな出来事が起こるんだろう?と思い始めた。
どうしてこんなふうに反応するんだろう?と思い始めた。
いやいや。それも全て起こり。。。と、収めることができなくなってきた。
そんな時、コースの「あなたがそれを作った」という考えに出くわした。
「げ!マジ?」と思ったが、心のどこかで、「やっぱり。。。」と感じた。
起こることは、ただ起こっているのだから、という受動的な考えから、
起こることは、あなたがそれを起こし、
あなたがあなたに何かを教えようとしているという能動的な考え。
コースの中に出てくる画期的な考えは、聖霊の視点というもの。
聖霊といっても羽の生えたキャラではない。目に見えるようなものでもなければ、一個の独立した存在でもない。考えとでも言おうか、それは正しい心。
私たちはずっと自我の視点でものを考えてきた。自我の視点とは、恐れ、罪、罪悪感。そこから全てのものを解釈していたのだ。
一方、聖霊の視点とは、自我とは真逆の考え。
言葉は所詮自我で作られたものだから、その言葉で表すことはできないが、
あえていうなら、愛、平安、喜びからの視点。
「は?それ、ふつーじゃん。つまんねえ~」
と私は最初思った。
コースは愛を教えてはいない。それは教えるような次元のものではないから。
愛を知るのは、自我で覆われた考えが消えていくうちに、自ら立ち現れてくるものだからだ。
だから教える最初の方は、自我が何をやっているのか、だ。
「あなたがそれを作った」というなら、起こることが起こっているのは、あなたがそれを作ったからだということになる。つまり起こる出来事の責任はあなたにあると言ってのけられる。
ゲゲゲ。まずいど。
この聖霊の視点とは、これまで私が考えてきた視点とはまったく違うところからのアプローチを試みる。自我の考えしか知らない私に、別の視点があるよと教え始めるのだ。それは例えていうなら、二次元のフラットランドに住む人々に、三次元の視点を持った存在から、その視点を教わるようなもんだ。
これは観察する意識ではない。まったく違う視点。
自我が何を私たちにしているのかを知れば知るほど、イヤになってくる。
一体私は今まで何をやっていたんだ。どれだけ自我に翻弄されていたんだ!と驚く。
反面、自我のヤロウ、頭いーなーと、尊敬してしまいそうになる(笑)。
いったん形而上学的に学んだ後は、頭で学ぶというよりも習慣にしていく。
私たちが生まれてきてまもなく学んできた自我の考えを身につけていったように、
今度は聖霊の考えを身につけていくことになる。
最初はなんじゃそりゃ?って感じだけど、何かが徐々に私の知らないところで動き始める。
そしてだんだん自我の視点では決してえられなかったダイナミックな喜びが訪れ始める。
最初は「喜び?愛?平安?は?、それフツーじゃん。つまんねえ~」といってたものが、
それは自我の視点からのものだったことに気づかされる。
起こる出来事に対して、自我は、
「ほーらこの世界は残酷で無慈悲だろう~?
でもウンと努力すれば、たまにはちょっぴり幸せをやるよ」
というふうに、アメとムチでこの世界にいつまでもいさせるために使う。
一方聖霊は、
「この残酷で悲しい世界は本当にありますか?」
と、この世界がないということに気づいていくために使う。
そして私は、
「これをしでかしたのは自分、だからこれを自分は取り消したい」
と理解していくのである。
つまり起こることとは、この世界は一体どんなものなのかに気づき、
そこから目を覚ますために、起こされているのだ。
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