2025年4月27日日曜日

No people pleasing No private thoughts

昨日焼きあがった器。手回し轆轤もチョットづつ進歩笑

 

自分が隠してきたことを自分も気がつかないまま長いこと過ごしてきた。

それに気がついた時、癒しが起こった。


私は割といい人に思われているが(笑)、

その陰に人生を渡るための戦術があった。

その戦術は長いこと有効とされてきたが、

ある時それがまったく通用しないところに来た。




思えばいつも近くに攻撃的な存在があった。

その攻撃をどう避けるか、それが私の戦術だった。


力には力をではなく、

相手の行動を前もって察知して避けるというものだ。


戦意を喪失させる。

火には油を注がず、

火がつくものを前もって刈り取る方法だ。


例えば父の戦闘態勢に対して、

前もってご機嫌をとるという戦法を使った。


幼い頃これが功を奏したため、

私の生き方はそれがメインの防衛となった。


だから私の人当たりの良さは、

防衛という戦術と言っていい。

明るく楽しく話題を提供する存在、

お調子者、太鼓持ち、忖度の塊。


そうやって人生の波を切り抜けてきたつもりだったが、

まったく通用しないときに遭遇した時、私の何かが崩れた。


過去の戦術をどう駆使してもますます火に油をそそぐことになった。

もう無理だ。

いったい私に何が起こっている?





深い淵に落ちていく。

その闇の中で、血まみれの私がいた。



肉体的攻撃、心ない罵声、自分の存在を全否定される出来事。

それが起こらないために、

外の存在をなだめるために注がれた私の思いや行為。。。

その底に、傷だらけの私がいたのだ。


私は自分自身をないがしろにしてきた。


傷ついた自分よりも、

さらに傷つかないために使った戦術に覆い隠されて、

悲しみの中にいた自分に初めて気づかされた。





私は闇落ちした。

周りを気遣っている余裕などなかった。

忖度はどこかへ吹っ飛んだ。


私はもう誰の機嫌も取らない。いや、取れない。

このまま感情に任せて暴れまくってやる!



だが不思議なことに、今までやってこなかった、

気に入らないことに対して怒る、暴言を吐く、

そんなことをやる自分に何の後腐れもない。

罪悪感も感じていない。


そんな自分がいたのだろうか?

今までは後悔と恐れと罪悪感でまみれていたはずなのに。


そして自分でやってみてわかった。

言いっぱなしでいいんだと。


言ったら、後で何言われるかわからない。

そんな思いさえも持つ必要がなかったことを。


自分が思うがままに振舞って初めて、

それがその人に必要だったことを知る。





正直に出す。

隠さない。


デービッド・ホフマイスターの言葉で

No people pleasing

No private thoughts

というものがある。


人のご機嫌を取らない。

隠した思いを持たない。


最初その意味がピンとこなかった。

しかしこういう出来事の中で、それがいかに大事かを知る。


空気を読んだり、忖度する人間が、

自分の正直な思いを伝えることはとても勇気がいる。

「これ言ったら、相手の機嫌を損ねるよなあ。。。」


でもそのことが、この世界を分離した世界として立証し続けていたことだった。


自分以外の人間がいる。

その分離した存在は私を攻撃してくる。

だから思いを隠す。


しかし隠すことで罪を生み出す。

その罪の苦しさから、さらにそれを隠す。

隠して隠して光も通さないところに密かに持ち続ける。


しれが隅石。

この世界を実在させ続ける要になっている。


しかし思いを正直に出すことは、相手を信頼することである。

相手と自分はひとつであると信じることになる。


隠し事は信頼していない。

自分と人は分離しているという証になる。


隠し事は心に重石を持つ。

隠さないで話すことはひとつ軽くなる。


正直に話すことはとても勇気がいる。


だけどそれをすることによって、


人との分離は薄くなっていき、


分離して見えている人々はひとつだと身をもって知り始め、


世界は優しくなって光の中に消えていくのだろう。



長くなりました。











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2025年4月3日木曜日

存在の恋

 

「ダッチバイク」

最近仕事を辞めた友達の話を聞いた。


彼女は勤め先の先輩にいつも仕事ができないことを指摘されて、

その度できない自分を責める日々だった。


仕事を辞めることが決まってあと数日という時、

先輩がなぜ彼女がそうなのかと、

責める心ではなく、

「どうしてなのだろう?」と尋ねる思いで聞いてきた。


彼女は指摘されると緊張してしまい、

頭が真っ白になって色々忘れてしまうのだと正直に話した。


それを聞いた先輩は、

「そうだったの。。もっと早くそんな話ができたらよかったわね、ごめんなさいね」と、

お互い泣きながら和解したという。


仕事納めの最後の日、彼女は先輩に「好きです」と告白した。

「コースが、体はコミュニケーションのために使うって言ってたから、

好きって言いたいと思ったんだ」


それは苦しみの日々の中、ふいに自分の心に気がついたことだった。

それを聞いた先輩はまた泣き、二人で泣いて。

最後別れるとき「飲みに行きましょうね」と言ってくれたそうだ。




そんな話を聞いて、私も泣く。

人が人に「好き」と告白する時、心が溶ける。

それは相思相愛になることを目的とする恋愛とはちょっと違う存在の恋。


私にも好きな人がいる。

会うたびに「こいつ、たまらん。好きだなあ。。」と思う。

そう思うとき、その人と私は溶け合う。

どっちが私でどっちが彼女かわからなくなる。

本当は全く同じなんじゃないか?とさえ思う。


そう思いながら周りを見渡すと、

あの人も好きだし、この人も好き、、、と辿っていくと、

なんだ全員好きなんじゃないか!と気がつく。





その彼女は、ある時病気していたお母さんに

「好き」とラインスタンプを送った。

するとすかさずお母さんからも「好き」のスタンプ嵐がやってきた。


それからお母さんはメキメキと元気になっていった。

その体験から彼女は思う。

「なんか~。そこに、ただ好きというところにいられたらいいんかなあって」


その気づきはとても大きいように思う。

どんな慰めの言葉よりも、励ましの言葉よりも、共感よりも、

瞬時に大きなギフトが送られる。





人に「好き」と伝えることは、すなわち自分に「好き」と言ってることだ。


自分が好き。


それは本当の本当のところ、もともとあったものなのだ。

神の子が自分を嫌うわけがない。


嫌うことになったのは、あれをしなさい。これをしちゃダメと、

自分が自分でいられないことを学んできたからだ。

自分はこうであってはいけない、

あの人のようにならなければいけないという、自分への否定。


こういう概念が私たちに放り込まれるにつけ、

私たちはどんどん自分が嫌いになっていく。

そして今の自分じゃない、あるべき姿を追いかけるようになっていく。


ナイチンゲールやリンカーンは、彼らだからこそ、そうなった姿だ。

誰も誰かのように、コピーできるかのように、なれるわけがない。



私たちが学んできたことは、元々の自分じゃないものを学んできた。

学ぶものは、もともとないものを「学ぶ」から。


でも元々の私たちは真実を既に知っている。

だから真実は学ぶものじゃなくて、思い出すものなのだ。



自分が好き。


そう思う時、内側がパワフルになる。

自分そのままでいいのだと思う時、

何もする必要がなくなる。


恋をしている時、ただそこにいるだけで良い。


自分が自分に恋をする時、

大きな喜びが、大きな花束を抱えてやってくる。








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2025年3月31日月曜日

胡蝶の夢

「山笑ふ」和紙、水彩

 

今月は忙しくてバタバタしている間に、

山桜が満開になっていた。

高尾山が一望できる場所で、

久しぶりに山笑ふこのひと時を一人堪能する。


春の香りがする大地に大の字になって青い空を眺めながら思う。


胡蝶の夢の話は、「私が蝶になったのか、蝶が私になったのか」

夢と現実の区別がつかないことを意味しているが、

実は、私は蝶でもあるし、人間でもある、

という夢を見ているのではないか。


夢と現実の区別というよりも、

この世界が夢そのものである。


その夢の中で私が蝶になろうと、人間になろうと、

それは夢の中の物語でしかなく、

「私」とは、人間でも蝶でもないのだ。



頭の中で聞こえてくる声は、常にこの世界のことを話す。

あれはどうなった?

それは解決せねばならぬ。

その解決法は、ああやってこうやって。。。。


それは「お前は人間だ」という催眠をかける。

私が人間であると信じさせる方法は、頭の中の声を聞くことだ。

頭の中は勝手にこの世界のことを物知りのようにいう。



そう。この世界は形の世界。

形が私。形と形がまぐわって新しい命を作る。

形は形を作り出し、それは変化して死にゆく。


その常に変化するものに囚われて、

この形じゃイヤだ!別の形にしたい!

と言い続けて戦っている間に、

老いというものがやってきて、

思うように動かない自分に腹が立ち、

それを別の形にしようとあの手この手を使う。


またまんまとこの形の世界に囚われて生きることの繰り返し。


ある時、「この私という人生は、

何度もなんども同じことを繰り返しているだけなんじゃないか?」

と気がついた時、ハッとして、ゾッとした。


苦しみは形の中にあるんじゃないのか?

形ばかりに心が奪われてきた、このことへの気づきが促されていた。




空を眺める。

そこには形がない。

形がないものは私と思っているこの体を覆い尽くし、

その体の中にまで浸透している。

目の前の山の中にも、木々や草花、

そこに生きる野生動物や昆虫や蝶の中にもある。


そこに心を移す時、心は広がる。

私と思っていたこの体は、

私が見ている夢の中の主人公で、

その周りにある透明な何かが本当の私。


形であるものは私ではなく、形のないものこそが私。


心がグルンとひっくり返る。

あると見えているものは存在しない。

ないように思えるものこそが存在する。


形は、私の恐れの心が映し出した夢という幻想。


その夢の中に登場する形を、

もう追求しなくていいんだというホッとした喜び。


私は蝶でも人間でもなかったという安堵。












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