知り合いの絵描きさんから、
近所のカフェで個展をやるというお知らせをもらい出かける。
歩いて30分ほどで着いたら、カフェのオーナーさんに
「あれっ?今帰ったばっかりだよ。会わなかった?」
ここは一本道だから、会わないはずはない。
「じゃあ、バスで帰っちゃったんだね~」
いつもは歩いて帰る人なのに、その日に限って、バスで帰られたようだ。
彼の力みのないゆったりとした絵に感銘を受けながら、しばし静かな時間を過ごした。
私もこんな風に力の抜けた絵を描きたいと思う。
後日いつも行く時間帯に出向いた。
この時間なら彼はきっといるだろうと思ったら、
後からカフェにやってきた、彼のご近所さんだというご婦人たちが、
「今日はお墓まいりに行くって言ってましたよ」
またすれ違い(笑)。
そして昨日、たまたまそのカフェの前を車で通り過ぎると、デッキに彼の姿が。
「あっ!」というと、彼もあっという顔をして目があった。
「止めて止めて!」と運転しているダンナを促したが、
「後ろから車が来ているから無理!」
すぐ後ろに青い車が迫ってた。
狭い道なので脇に寄ることもできず、後ろから押されるように
「あ~~~~~」と言いながら、そのまま通り過ぎてしまった(笑)。
3度もすれ違うってすごくね?
思わず車の中で大笑いをしてしまった。
私たちはいろんな解釈をする。
偶然会えると「いいことがあった」と思うし、
会えないと「残念だ~」と思うし、
その無念さから「日頃の行いが悪いのかな?」と、
まるでバチが当たったかのように解釈もする。
その解釈や判断が、私たちを苦しめる。
そういう判断をできるだけやめていこうと思っている。
判断をするとき、この状況は嫌だという抵抗がある。
すれ違いはいけない事だという判断。そこに罪悪感がある。
それが私たちを苦しめる。
だけどことは起こった。
そのことをそのまま受け止めること、つまり無抵抗であることは力が抜ける。
さらに笑いは、その場を明るくする。
笑いはそのことをそのまま受け止め、深刻さをなくす。
そのまま受け止めるって自由だ。
私はずっと自分の罪悪感に振り回されてきた。
罪悪感を感じることは、実は密かにこんなことを考えている。
自分で自分の罪に対して罪悪感を感じるということで、自らを罰しているのだから、
神様、許してください。
だからもっとひどいことは起こりませんようにと。
私は罪が実在すると信じ、
自分を鞭打ちながら、神様のご機嫌うかがいして生きる。
ほら。私は私を罰してるよ。だから許して。。。
このやり方がいかに自分を小さく弱いものにさせていたことか。
だいたい神は人に罰を与えるのだろうか。
その罰を与える神は、私たちが考えついた、心の狭い怒りを持った神。。
つまり私たちの投影が生み出した偽物の神なのではないか。
罪悪感が自分に与える罰には、何の意味もないと知り始め、
小さな罪悪感から少しづつ、自分を赦していったのだった。
あれではいけない、こうでなければならない、、
そう言い続ける罪悪感だらけの考えが、自分自身を赦すことによって、
罪悪感が消え始め、だんだん心の中が静かになっていく。
そして本当は、
ああでなくても、こうでなくてもよかったのだ。
ほんとはどっちでもいい。
そんなことに気づき始める。
どっちでもよくなかったのは、そこに恐れがあったからなのだった。
恐れではなく、愛や喜びを選ぶようになると、
気楽さがふつふつと生まれてくる。
本当の神は、それを私たちに望んでいるのではないか。
絵:「秋の山」
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