私が見ているものについての責任は、私自身にある。
見ているとは、解釈。
その解釈の方向は、目の前の光景を誰と見るかにかかっている。
自我か、聖霊か。
恐れか、愛か。
この頃ジャンクメールが多い。
その中でアマゾンの注文メールとそっくりなのがきた。
知らないひとあての注文。
ゾッとする。
確認すると、そんなものはなかった。
この恐れの中に何があるのかを見ると、
「悪意のある奴に身ぐるみはがされる」
という信念があった。
だいたいひた隠している信念は、漫画みたいなノリが多い。
露頭に迷うとか、身ぐるみはがされるとか。
身ぐるみはがされるって、どんな状態や。盗賊か!
どっから持ってきたんや!
と、旦那に話す。
「その信念があるってことは、それをどっかでやったことでもあるんか?」
じっと考える。
そやな。そういうことした私がおるから、そんな信念があるんかな。。
うん。。。確かにかすかに記憶がある。
北欧の海をうろうろしてたバイキングだったこともあるやろし、
アラブの砂漠の中で盗賊やったこともある。。。(ほんまか?)
ってか、こんな信念誰でも持ってるわ!
そしたらみんな盗賊や海賊やった過去があるんや(爆)。
みんなが盗賊やったかどうかはさておき(置いとくんか)、
悪意を持った奴がいるという信念は、
愛によって思い起こされるものではない。
恐れと分離の信念によって信じられたものだ。
その見たものへの解釈は、間違いなく自我とともに解釈したもの。
この信念を持っている限り、同じ出来事が起こったら、また同じように反応するだけだ。
恐れはそれを実在化する。
自我はそれを使う。
自我の思考システムは、常に恐れを引き起こす。
悲観、非難、攻撃、全て恐れ。
私はこの残酷な世界で、兄弟の身ぐるみはがしてでも生き抜いていかねばならないのだ!
というサバイバルな心。
取られたら、取り返せ~~~っ!と。
その恐れをずっと感じていたいか?私。
もちろん、ノーだ。
この信念を聖霊にお渡しする。
「もういりません。訂正をお願いします」
ワプニックさんの動画を見て、とても感じるところがあった。
私たちはあらゆることに、常に瞬時に自我的な解釈をしている。
その解釈は恐れを伴うからすぐわかる。
それはまさにこの世界を実在させ、重くのしかかるものだ。
今まで、自我を選んでいたとさえ思わず勝手に起こしていた自動反応が、
私は自我を選んでいたのだと知る。
自我でしか、見ることを知らなかったと知る。
その今までの見方を、別の見方でみたいと願うことは、
見方の方向転換をさせる。
外に罪を見ることは、自分に罪を見ることと同じ。
しかし外に無垢性を見る事は、自分に無罪を見ることになる。
心の作用は全く同じように起こる。
昔盗賊だった私は、神の愛を求めて暴れていたんだ。
モノを得ることで、神を得られると。
愛を求めていたんだ。
でもそれはずっとここにあった。
ないという思いが、私を暴れさせていただけだったんだ。
私はそれを選ばない。もうそれを望まない。
そんな自分を赦す。
私は別の見方を選ぶ。
重くのしかかっていたこの世界が、
軽くなっていく。
絵:ミステリー表紙イラスト
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