めちゃくちゃ忙しかった今年前半戦を終え、スコーンと時間が空いた。
秋に展覧会が決まったとはいえ、
今からバタバタ動かなくてもいい今日この頃。
いったい私は何をしたらいいのだ?と、心が騒いでいる。
人は生きるために何か建設的なことをしなければいけないという概念に縛られてきた。
何もしないでいることは罪。
手でも鼻でもなんでもいいからとりあえず動かしていることで、
明日のおまんまにありつける。
そういう信仰が私の中にあった。
「この三日間、なーんにもしていない。。。やばい」
「ああ、あれができた。満足」というものがない。。!
でも振り返ってみると、
「いや、ブログ書いてるではないか」とか
「ほつれたところを縫い直したではないか」とか
「庭の草刈り、途中までやったではないか」とか
何かしらある。
それでもどうも満ち足りないのだ。
何かしら欠乏感が。。。。w
夜中、自分のうるさい声で目が覚めた。
心が何か喋っているのだ。
何言ってるかさっぱりわからないのだが、
どうも何か「する」ことを必死で言っている。
これしなきゃ、あれしなきゃと。
あまりにうるさいので起きた。
暗闇の中でじーっとして、その声を聞く。
この声を聞くほどに、心細くなっていく。
何かが足りない。
何かして、何かを満たそうと、と大騒ぎしているのだ。
そうか。静かにしよう。
騒いでいる声を意識的に止める。
静けさがだんだん広がってくる。
それと同時に、何かが満ちてきた。
私の心いっぱいに何かが満ちていく。
さっきまでの心細さと何かが足りないという感覚は、
何かしなければという声とともにいた。
しかしその声が消えていった時、そこは満たされていたのだった。
自我は自分は無力だという。いつも足りない。
その足りないものを満たさねばならないと言い張る。
しかし自我自身が無であった。
無が無で何かを満たそうとしてもそれは無理な話だ。
だって無なんだもん。
そのうるさく急き立てる声に従って、
何かをやって、何かを満たそうとしても、
草刈りであれ、仕事であれ、お金であれ、
満たされきることはなかった。
しかしもう一つの選択、聖霊とともにいることは、
本来の自分に帰る道。
それが唯一実在する、有の道なのだ。
そこに立つとき、形ではないものが帰ってくる。
隠されていたものが、現れてくる。
すでに満ちているものがそこにある。
日常の忙しさや、日常のあれこれに気を取られている時こそ、
そのことを常に思い出したいと思った。
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