この世界は常に「する」ことに終始している。
困った時、「どうしよう?」という。
「どうあろう?」とは言わない。
何かを「する」ことが前提となっている。
ここにいていいと認められるために「する人」でなければいけない。
いい子でいるためには、ぼーっとしててはいけない。
いい子であるために「する子」でなければいけないのだ。
その内容は決まっている。
大人が考えた「正しいこと」を「する子」。
その正しいことをできない子は、
「できない子」というレッテルを貼られ、
その子自身も自分に「できない子」というレッテルを張る。
つまりこの世で生きていく許可証は「正しいこと」を「する子」という条件がつく。
だもんだから、する子は常に何かしようとしていて、
できない子は、そりゃあもう、必死でどうにかできる子にならないといけないってなもんで、
大人の顔色を見ながら生きる。
どっちにしろ、常に何かをしていなければいけないという強迫観念の中で生きることになる。
でもさあ。
「生まれてきてくれてありがとう♪」
という、ただそこにいるだけでありがたがられていたはずが、
だんだん何かをしないと、そこにいちゃいけないに変わる。
これってどうよ。
いつの間にか、生きることは「すること」になっていたのだった。
だから何もしないときは、生きていることにならない。
何かをしてこそ、生きるのだと。
それがどこかおかしいとは気がついていたが、
いざ何もしない自分をまともに見ると、
自分を罰している(笑)
何もしないでは、いられないのだ。。。!
(何もしないでは「居られない」うまいっw)
常に体を動かすこと、うごかせなかったら、頭を動かすこと。
する、する、する、、!
「そこのキミ、ここに何が入る?」
「する」
「はいっ、ご名答~っ!」
ぼーっとしててはいけない。
だから問題を探す。
どこかに問題はないか?
その問題を解決してこそ、ここにいていいのだ、、!
これは幸せと同じ。
幸せも、ここにいていいも、条件付きなのだ。
あれやって幸せ。
それやって、ここにいていいと安心する。
でも。。。
ほんとうは、ぼーっとしてて、いいんじゃね?
ぼーっとしてて、それが幸せなんじゃね?
ただあるとは、ただそこにいるだけで充足していることじゃね?
ぼーっとしててはいけないという焦燥感は、
恐れの重低音の中にいる。
焦燥感も恐れ。
あの人はあんなに頑張っているのに、
私ときたら、ぼーっとして、何にもしてない!
罪悪感という恐れ。
試しにぼーっとしてみる。
で、できない。。。
幼稚園生の頃、あんなにぼーっとできてたのに。。。。!
60年間の間に、ぼーっとするワザをどこかに置いてきてしまった(笑)。
あの時は、ただ「ある子」だったのだ。
ただあるだけで、私は幸せだった。
私は恐れの重低音の中にすっかり沈み込んでしまっていた。
常に常に何かをする子。何かをしないではいられない巨大な恐れの中に。
その霧は私を小さなカラダの中に閉じ込める。
カラダは常にすることとつながっているから。
してこそカラダ。
そしてカラダこそ私。
本当にそうなのか?
ぼーっとするワザを持っていた「ある子」は、
自分をカラダだと思っていただろうか。
もっと大きな何かの中にいて、安堵し安心しきっていた。
ただあることの中で喜んでいた。
それができないはずはない。
だって元々それが私たちなのだから。
「そこのキミ、ここに何が入る?」
「する」
「なんでやねん!」
「ある」が一番~、ア~ルフル~💙
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