最初はモグラだった。
キュウリの種を蒔いた畝に、ちょこんとモグラの死骸。
あおむけになってて、かわいかった。ちょんちょんと小さなつめのようなお手手を触った。
畑の外にそっと捨てた。
次は、畑に行く途中のけものみちにリスの死骸。
そーっとそばの木の枝で持ち上げて、けものみち脇に置く。その上に土と葉っぱをかぶせた。まだやわらかかったので、死んで間もなかったんだろう。
そして今日。
畑の一角に鳥の羽根が散乱していた。色からしてキジバトだ。ぐるっとまわりを見渡してもその本体は見当たらなかった。
しかしスナップエンドウを収穫している時にそれはあった。
胸のあたりを大きく開いて、中身はほとんど食べられていた。下の方に黄色い腸があった。私はゴム手袋をして、彼(彼女?)をそっともちあげ、用意した紙袋に体を入れた。
眼はやさしく閉じられていた。
当り前なのかもしれないけれど、苦痛な表情はしていなかった。野生動物はいつも、死に顔が美しい。なぜだろう。それは私たち人間のように、自我がないからだろうか。
当り前なのかもしれないけれど、苦痛な表情はしていなかった。野生動物はいつも、死に顔が美しい。なぜだろう。それは私たち人間のように、自我がないからだろうか。
散らばった羽根もいっしょにかき集めて、畑の外の川っぷちに穴を掘る。死骸をそっと入れて、土をかけた。
最初はモグラの死骸。次はリス。そしてキジバト。だんだん大きくなる。
このペースでいけば、次は父親か母親の死骸を見る?
心はそんなことを考える。
二元の世界は、これがあったら、こうなる。こう言う現象が起こるってことは、きっとこうなる前兆なのだ。。。。などと、いろんな解釈をする自我がいた。
きっとそうではない。
そいうことではなく、これはわたしがスナップエンドウを収穫していることと、まるで同じことなのだと気づく。
私はスナップエンドウを殺して食べている。野生動物が、モグラやリスやハトを食べるのと、なにが違う?全く同じことをしているのだ。
ハトやリスを殺すことは残酷で、スナップエンドウを殺すことは残酷じゃないって誰が決められるのだろう。
しかしどちらも「残酷」ではない。
それは人間が勝手に「解釈」したことだ。
それは人間が勝手に「解釈」したことだ。
この自然は、私も、野生動物も、生きているものを殺して、生かされる。
そのことを自覚しながら生きる。
その尊さに心を震わせる。
その自覚こそ、だいじなのかもしれない。
絵:オリジナル絵本「あめがくる」より/水彩画
6 件のコメント:
私も同感です。地球も含め、地球に存在する全てが命であり、尊ばれるものだと思います。
話す、動く、生きている…
人間の理解が全てではないし、
人間が見えるものだけが地球、宇宙に存在するものではない。
科学で証明されたものが真実であるという考え方は、
人間にとって
危うい捉え方だと、
私は思います。
匿名さん
コメントをありがとうございます。
人間中心でものを考えると、結局人間自身を小さなものにしてしまいますよね。人間の目に見えるものだけでしか全てを証明、判断しない時代はそろそろ変わっていくことを願っています。
お返事ありがとうございます。
人間が主張する権利、正義、常識、進歩…
人間目線、個人目線、その時の多数派目線で決めているように、私は思います。
地動説、ロボット、AIも、始めは空想でしかなかった。
今は常識です。
極端な話、一日あれば常識が反転することもあり得ます。
個人が自分軸を持ち、周りに、振り回されないことが自分や、大切な人や何かを守ることに大事なのではないか。と、思います。
そのためには、人任せにせず、勇気を持って、思いやりと、愛ある行動をしていくことが大切では、と思います。
深いご意見をありがとうございます。
知覚の世界は、私たちの心を振り回します。
時代によって、場所によって、価値観は本当に簡単にコロコロ変わります。
地動説でさえ、時代が変わればもう古い説になるかもしれませんね。
だからこそ、匿名さんのおっしゃるように、自分の内面に深く分け入り、愛の思いに心を寄せていくことが大事なのでしょうね。
つくしさん
毎回お心のこもったお返事を頂きまして
ありがとうございます。
私も今自分に出来る事を自分なりのやり方で、実行中です。
これからも
個人、国、性、宗教…色々な壁を取り払って、
『地球上の生きもの』という目線で、
愛と思いやりの行動を
続けていきます。
つくしさん、どうぞ御自愛されて
ご活躍下さい😊
ありがとうございます。
その人が一番生きるやり方でやっていくのが
一番力を発揮できるのだと思っています。
愛は互いの分離を溶解させていきます。
お互い、あらゆる壁を取り払って、愛を生きていきましょう。
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