2017年5月10日水曜日

その観念を放置プレー



私たちは、自分が思うもので出来ている。

思うもの。つまり思考。つまり観念。

それがどう言う意味なのかは、頭ではわかっていたが、じょじょに、
「え?マジで?いや。まさか。。。いやいや。やっぱりそーなのか。。。。!」
と、ゆーふーに、自分の中でリアルに気がつきはじめた。

そーすると、自分の中で当り前のよーに考えている常識が、
「いや。ひょっとしたら、これって、ひとつの観念?」
と、ゆーふーに、一個一個を意識するはめに(笑)。



人はほとんど無意識に、自動的にあたまの中で考え事をしている。

「いーや、わたしはなーんにも考えてないよ」という人は置いといて、
「ウン。。。確かに頭の中でつねに考えごとをしているなあ。。。」
と思う人は、その考えている内容に気がついてみるといいと思うよ。

たいてい、ある問題について考えている。
ある特定の人物のことだったり、身体のことだったり、将来のことだったり、お金のことだったり、これからの打ち合わせのことだったり、、、。
いろんな「問題」について、ぶつぶつぶつぶつ考えている。

わたしは、自分の中で考えているものに、いくつかのパターンがあるのに気がついた。ある人物のこと、将来のこと、お金のことだ。この3つがいろんな形に変化しながら、ぶつぶつぶつぶつと、垂れ流し状態で考えていたのだ。それは「つくしのあたまの中のBGM」という名のカセットテープだった。

いや、正確にうと、考えていたんではないな。たんに垂れ流されていただけだ(笑)。
その自動的に流されているテープに気がつくと、からだが、ぞぞぞぞぞお~~~っとして、急に縮こまる。そのBGMには、「罪悪感」とゆーおまけがついてくるからだ。
あの人物、将来、お金にまつわる、ありとあらゆる観念に対する罪の意識だ。

1:ふいにカセットテープの再生ボタンが押される。
2:それを聞いて、罪の意識がもちあがり、
3:からだがぞぞぞお~~っとする。

4:すると今度は、小学校で教わった時のよーに、
「問題」を見つけてしまったので、
「答え」を探さなくてはいけなくなる。

5:かくして、心はあーでもない、こーでもない、と、
ひたすら「答え」を求めて右往左往する。

1~5までの、一連の自動反応が起こっていたのだ。

とゆーことを、ずーーーーーーーーーーーっと、あたまの中でやっていたのだな、と知る。


で、わたしはどうしたか。

1:ふいにカセットテープの再生ボタンが押される。
2:それが鳴っていることに気がつく。
3:罪の意識が持ち上がるの気にがつく。
4:身体が硬直しようとしているのに気がつく。
5:答えを探そうとしている心に気がつく。

感情がかき乱されると、心はなんとかそこから離れようとする。
そのために、言い訳を考える、あいつが悪いといってみる、あれはしかたなかったんだよ、とか正当化してみる、やっぱりわたしがいけないんだ、とかの自己憐憫に陥る。。。そういう膨大な考えで、あたまの中が埋め尽くされることに気がつくことだ。

これは不快だ。いや、実に不快だ(笑)。
しかし、ここで言い訳をしたり、ゲームやったり、テレビ見たり、酒飲んだりして、なかったことにしたところで、このカセットテープは消えない。
それに直面しない限り、そのカセットテープは鳴り続ける。

だから勇気があれば、それに向かい合う。
不快の中にただいる。不快とともにいる。
心配ない。それは必ず消えていく。


不快とともにいると、なぜか別の視点が見えてくる。
今まで気がつかなかった視点だ。
そこで知ることは、外の情報による知識ではない。自らの中にあった叡智だ。

気づきには二つの種類がある。
ひとつは何かに気づいていること。
もうひとつは、「わかる」ことの気づきだ。「ああ。。。これか。。。」という、深い所の理解。言葉以上の何か。


不快は、まさにナウシカの腐海の森の入り口。
入り口は臭気に満ちていて、入るものを拒む。だけどあえてその中に入ると、ナウシカのようにちがう視点を持ちはじめる。
その奥には、人の無限の可能性が隠れている。



不快とともにいると、じょじょに自分の観念に気がつきはじめる。この観念が自分を不幸な気持ちにさせているのかと。そうすると、心の中に浮かぶ観念のひとつひとつが、持っていても意味がないこともわかってくる。

観念がある。
ほう。そういう観念か。
その観念に乗っからない。
ただ、その観念を放置プレー。
とりのぞきもしない。
ただ、みてるだけー。
ウインドウショッピングみたいなもんだな。

「オネエさん、これ、いいですよ。買いませんか?」
「ううん。ただ、みてるだけー。」



絵:「日本人の平均」/MF新書表紙イラスト

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