イラストレーターにとって、直しが来るのはつらい。
イラレで作った作品ならデジタル上でチャチャっと直せるけど、
水彩というアナログをデジタル上で直していくのは苦手。
フォトショは幼稚園児並みの技量しかないのに~。
ただでさえひえ~って思っているのに、
二度目の直しがきた時、「?」と思った。
直しはさらに良くなるためのものであるのに、
もう何が何だかわからない状態に直せという。
なんだこれは。
言葉が音でしかないのかもと思い始めてきたあたりから、
今度は、目に見えて現れてくるものさえも意味がないのかも。。。?と。
この直しはその延長線上にある。
作品にはいい悪いがあると思っているけれど、それさえも意味がない。
いい作品にすることではないのだ。
(マジで。。。?)
ミッションは、この出来事を通して、
自分がどんな信念を持っているか、
それが手放せるかを問われている。
直しをもらう時に、思う思いはなんだろう。
人に迷惑をかけている。
直しがくるということは、いい作品ではないのだ。
私は無能だと言われている。
もうこれで仕事は来ないかもしれない。
生きてけない。路頭に迷う。
(最後はいつもここにくるw)
こういう信念があるから私は苦しい。
もしこれらの信念がなかったら、私は何も苦しまないだろう。
自分は無能だという信念。
自分は人に迷惑をかける、ここにいる価値のない人間という信念。
ずっとこの信念で自分をはかってきたから、苦しんできたのだ。
みんな罪悪感だ。
この信念を何十年も掴んで離さなかった自分を赦す。
そしてこの信念は、間違った信念。
なぜかというと、神の子が、
神の子ではないと信じ込むために作られた信念だからだ。
この信念を自分で消すことはできない。
聖霊に手渡して、信念の訂正をお願いした。
そしてこの私のように、
直しで苦しんでいるすべての兄弟たちも癒されますように、と祈った。
そうなんだよ。いっぱいいると思う。
イラストレーターなりたての若い人たち、
「こうじゃないでしょ」と怒られながらヒーヒー頑張っている人たち。
またはベテランが今の絵のノリについていけなくて嘆いている人たち。
みんな苦しんでいる。
そんな人たちも私のように同じような信念を掴んで苦しんでいる。
そんな人たちも一緒に癒されますように。
心が、少しづつほぐれていく。
だんだんと軽くなっていく。
自分という肉体が持つ、内と外という隔絶された境界線が曖昧になっていく。
自分のアウトラインがどんどん溶け出して広がっていく。
私という形が消え始める。心が癒されていく、、、、。
一緒に癒されますようにと祈ることが、何を起こしているのか。
最近、この祈りが何かを動かしているのを感じる。
私は何もしていないのに、何かが動いている。
その変化は心の変化でわかる。
そして現象のかすかな変化でもわかる。
自分が一人孤立した存在ではなく、
兄弟と一つであることを感じ始める。
心が軽くなってきたと同時に、
楽しくなってくる。
これは私の新たな挑戦だ。
ゆっくりゆっくりちょっとづつやるぞ。
そこには後ろめたさがない。
罪悪感を引きずりながら、焦って直しをしていた私とは違う。
私にとって難解なフォトショへのチャレンジだ。
そしてできてしまった。
あれ?
しかしできない直しもあった。
それは私の限界。でもそのことさえも罪悪感がない。
これはできたけど、これは技術上できませんとはっきり伝えた。
昔だったら、できないとは言えなかった私だった。
また三度目の直しがくるかもしれない。
だけどその時になったら考える。
一つ一つの出来事が、
私の信念を手放す機会としてやってくるのをはっきりと自覚する。
誰かのせいで自分が苦しむわけじゃない。
自分(本当の自己、聖霊)が、
その都度私の変化に応じて、
自分(自我まみれの私)に教えてくれているのだ。
一歩一歩、ていねいに歩いて行こう。
今を信じて。
絵:ミステリー表紙イラスト
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