自己嫌悪の強い人は、つねに自分を裁く。
まるでこの世の悪いことは全部私のせいだと言わんばかりに。
それは傲慢と言われてしまうかもしれない。
お前ごときの小さなものが、そんなことできるわけがない。
傲慢にもほどがある。
はたから見たらそんな風に見える。
しかしひとつ息をするごとに自分は罪を犯し、
一歩踏み出すごとに罪を作ってしまうという信念を持っているものたちにとって、
それは傲慢でもなんでもなく、
ただただ自分という存在に恐れおののいているのだ。
私さえいなくなれば!この存在さえなきものにしてしまえば、この世は平安だ。
だが、そのなきものにさえできない、この臆病者。。。。!
どんな思いさえも、自分を罪にする。
私もそんなふうに考えてきた一人だ。
この罪深い存在をどうにかして罪を減らしたい!
だから罰を受けて、受けて、受けて、
この罪を償いたい!
今思えば、そう思って自分に罰を与えてきたようだ。
だが一向に罪は減らなかった。
あんなに罰を与えたのに、
罪はいまだに私の近くにあった。
私は自我という架空の存在に丸め込まれていた。
自我は常に私の耳元でささやく。
「お前は罪びとだ」
「お前は能無しだ」
「お前は人を傷つける」
その声を聞いた時、私の心は凍りつく。
「そうだ。今私はとんでもないことをしてしまった!」
目の前に繰り広げられる出来事の中に自分の罪を見つける。
「またやってしまった!」
その時、心はなんとも言えないみじめな気持ちになる。
この広い宇宙の中で、全くひとり取り残される分離の感覚。
誰も助けてくれない。
誰も私を愛の目で見てくれない。
すべてのものから裁きの目で見られる。
十字架に張り付けられる感覚。
「うわあ~~~!ごめんなさい!ごめんなさい!もうしません!許してください!」
幼かった頃のみじめさと恐ろしさの感覚が生々しくよみがえる。
やってしまったことはもう取り返しがつかない。
過去には戻れない。
もうどこにも行けない。
そうなると、ものすごい後悔と罪悪の感覚で身動きが取れなくなる。
この場で自分を切り刻んで殺してしまいたくなる。
しかしそれも恐ろしくてできない。
その自分の弱さにまた自分を責める。
この根性なし!
その自分の犯した罪を持っていることに耐えられなくなると、
その罪を暴き出した目の前の人物に向かう。
恐れは怒りに変わる。
お前を殺して自分も死ぬ!
これが自我が提示してくるアイディアだ。
そこにちゃんと長い間ハマってくれていた私に自我は感謝するだろう。
ってわけない!
自我はそのトリックに気がつかれたら困る。
いつまでも不幸のズンドコにいて欲しいのだ。
コースを理解するほど、
そのトリックと、ネバーエンディングな物語に、
だんだん「あれ?」って思い始める。
私が罪を見つけている限り、罰を欲することになる。
罪にはもれなく罰がついてくる。
罪と罰はセットだ。
罪と罰はこの形ある世界で繰り広げられる。
そして自我と罪はセットだ。
しかしその自我とは、架空のもの。
ところが架空を架空にしない私がいたのだ。
罪はある!といって、自我を実在させ続けていた。
自我のささやきに耳を傾けて、
「そうだそうだ」と同意してきたのだ。
ちょっと待てよ。
同意できるということは、
同意しないでいることもできるということだ。。。!
選択は私にかかっている。
このみじめな思いをこれ以上したくないならば、
それを選ばないでいることができる。
みじめになっている自分に気がついた時、
「私はそこに居たいだろうか?」
と聞いてみる。
もう何十年間もそこに居たのだ。
きっととても慣れ親しんでいる。
みじめでぶざまで自己憐憫する時間。。。。
そこにいつまでもたゆたよっていたいのか?
じっさい私はそんな存在なのだろうか。
「そうだそうだ」と後ろで声が聞こえる。
でも今はそれを掴まないでいることができる。
なぜならその声は自分の外にあることをもう知っているからだ。
神は私を無能だというだろうか。
神は私を罪深いというだろうか。
神は私を欠陥だらけの存在というだろうか。
それは誰のアイディアだ?
私を小さきものにするのは誰だ?
そしてその声を外に聞いている、
この私とは一体誰なのか。
絵:「夏の草」
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