やまんばは、きのうしつけとお仕置きの意味をごっちゃにしていた。
この二つは根本的な意味が違った。
お仕置きは肉体的に、精神的に、苦痛を味わわせることが目的だ。
しかししつけとは、ルールに従うための理解をさせることだ。
それには苦痛が絶対的に必要、とはかぎらない。
私は子供の頃、くすりを飲むのがイヤだった。
拒絶する子供にお仕置きをしてくすりを飲ませるという方法もあるだろう。だけどじっさい、その手は使われなかった。
「ほら、今あなたのからだの中に、悪い菌がいるの。このおくすりの中には、それをやっつけてくれる人がいるのよ。」
子供心にそのイメージがすぐわいて、イヤだけど飲んだ私がいた。それから後は、やっぱりイヤだけど、悪い菌をやっつけてくれるイメージとともに、くすりは飲めた。
肉体的や精神的な苦痛は、その後の心に影響を及ぼす。
苦痛はほとんどの人がそれに恐怖をかんじる。その恐怖を二度と味わいたくないために、しない。
それは「恐怖によるコントロール」ではないか?
私たちはこの世のルールに従うために、外からの恐怖によるコントロールと、そして自らも、自分を恐怖に陥れながら、自分自身をコントロールして生きている。
「ちゃんとしなきゃ病」もそれが基盤になっている。
わたしもさんざんこの病におかされた。
なんでもかんでも「ちゃんとしなきゃ、ちゃんとしなきゃ」って、ほとんど無意識にこのことばを呪文のように唱えて生きていた。
そのことばの後ろには、
ちゃんとしなきゃ、ろくな人生にならない。
ちゃんとしなきゃ、ひどいことになる。
ちゃんとしなきゃ、人にきらわれる。
ちゃんとしなきゃ、村八分になる。
ちゃんとしなきゃ、認めてもらえない。
という恐怖が宿っている。
それは幼い頃「ちゃんとせんかあ~っ!」
という言葉をもらっていたからのようだ。
その度に、からだがびくっとこわばる。
あわてて何かしようとする。だけど心が恐怖で一杯だから、なにをしているのかわからなくなる。するとまた「なにやってんだあ~っ!」とおこられるのだ。
だから大人になっても、ぼーっとしていると、急に、
「いかん。なんかせんといかん!」
とあせりだすのは、パブロフのイヌのようなその条件づけのおかげなのだ。
つまり、あのときの恐怖を味わいたくないために人は動くのだ。
行動の動機が、何かを「やりたい」ために動くのではなく、「おこられない」ために動く。
この二つのちがいはけたはずれに大きい。
私はくすりに関してはトラウマがない。
それは母のしつけのおかげだったとおもう。もし恐怖によるしつけだったら、
「くすり飲まなきゃ、くすり飲まないと大変な事になる」
と、おもっていたかもしれない。くすり飲まないと怒られる。。。と、心の奥が恐怖に駆り立てられただろう。
だけど、くすりを飲むことに冷静だったのは、その項目について何のトラウマもなかったからなのではないだろうか。
ちゃんとしなきゃ、というトラウマは、自分で解消できる。
「ちゃんとしなきゃ」と思いながら行動しようとしている瞬間に気がつく。
パブロフのイヌのように、自動的に反応しようとする自分を見つける。
自分が行動しようとするその瞬間、何が動機になっているのか、理解する。それが本当にやりたくてやっているのか、怒られないためにやっているのか、そして恐怖から逃げるためにやっているのか。
恐怖から逃げるためにやってもいい。
怒られないためにやってもいい。
だけど、その自分に気がついていること。
ちゃんとしなきゃ、とおもいながらやっている自分に、気がついていること。
それを何度も繰り返すうちに、それがしだいに溶解し始める。
恐怖によって動かされる行動が、それを意識することによって、恐怖でなくなっていくようだ。
それを何度も繰り返すうちに、それがしだいに溶解し始める。
恐怖によって動かされる行動が、それを意識することによって、恐怖でなくなっていくようだ。
トラウマは、自然と溶解し始める。
絵:「不屈の人 黒田官兵衛」MF新書表紙イラスト
来年の大河ドラマの主人公だ。
この人ほど、自分自身を深く見つめた人はいないのかもしれない。すごい人だ。
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