食い過ぎた。。。
最近太りすぎだ。。。
あれ、やらないと。。。
心の中は否定でいっぱいだ。
別に食い過ぎてもいいじゃないか。太っててもいいじゃないか。ほんとにそれをやらないといけないのか?
すると心は言うのだ。
そうしないと病気になる。そうしないと路頭に迷う。
自己は、自我は、エゴは、否定をエサに生きる。
否定してると、自分ってモノを実感できる。だめだだめだっていっている瞬間は、自分という存在がここにいる!と、実感する。
他人を意識した瞬間、自分を意識する。「あいつは敵だ」とおもった瞬間、強く自分を意識する。
自我はそうやって生きる。
ああ、お天気がいいなあ~。
風が気持ちいいなあ~。
いい人だなあ~。
こんな時、自我が消えている。
ふわ~っと自分が膨張して、まわりの空気に溶け込んでいく。
否定によって自我が自分を実感する時、固形化している。
自分と他人、というふうに別々に存在する。
だが肯定する時、自分がまわりに溶けていく。
自分と他人という区別があいまいになる。
そのとき、なんともいえないやすらぎがある。
が、自我があせる。
「じっ、、じぶんが存在できないっ!」
すると自我はじぶんをまた出現(?)させるために、否定する行為を呼び起こさせるのだ。
いったいだれに?
自我は誰に向かってやっているのだ?
「。。。。」に。
私たちは自我が自分だとおもっている。思考する心が自分だとおもっている。
だけどその大騒ぎする心の中のことばを、「誰か」が聞いていないか?
いつもどこかで必ず、何か、がいないか?
自我は大騒ぎする子供のようなものだ。
「やだーっ!それ、やだーっ!、これもやだーっ!ぜーんぶ、やだあーっ!」
私たちは、自我をじぶんだとおもっている。自我がいうことはまちがいないとおもっている。だから言うまま、そのまま聞く。自我の言うことを疑うことがない。
だだをこねる子供の言うことを親は全部聞くか?
ああ、これやなのね。ああ、それもやなのね。
ああ、、もう、、いったいどーしたらいいのっ!
子の言うことを全部聞く親は、ふりまわされて混乱する。
自我の言うことを全部聞くと、ふりまわされて混乱する。
否定すると自我が立ち上がる。それは自分にむけているときも、他人にむけているときも。
否定は自己実感である。
「危機感をもとう」
「あなた、それまちがっていますよ」
そんなキャッチコピーを聞いた瞬間、「カチッ」と個が固まる。自我が出現する。
すると自分と他人、敵と味方、善と悪、正しいまちがっている、という二極思考にはいる。
自我は二極思考をほしがる。この世に個として生きているという実感が湧いてくる。
反対する人たちは生き生きとしている。
人の悪口はワクワクする。
ゴシップネタはたのしい。
「これがだめだ、あれがただしい」
と言ってる時間は自分が立ち上がる。
反対する人たちは生き生きとしている。
人の悪口はワクワクする。
ゴシップネタはたのしい。
「これがだめだ、あれがただしい」
と言ってる時間は自分が立ち上がる。
そのとき個が別々になる。区別が生まれる。あっちとこっちにわかれる。
否定するとたのしい、けどくるしい。だけどそれが実感をえる。生きてるんだって。自我が喜ぶんだ。
さて、その自我は本当の自分なのだろうか。
否定するとたのしい、けどくるしい。だけどそれが実感をえる。生きてるんだって。自我が喜ぶんだ。
さて、その自我は本当の自分なのだろうか。
絵:「漫画FBI式しぐさの心理学」MF新書表紙イラスト
ニンゲンはしぐさによって心の中をあらわにしている!あなたの心はバレバレ?
0 件のコメント:
コメントを投稿