ある人の話。
「私の父は警官でした。
私がよく何かに対して『あれはよくない!』っていうと、
彼はきまって私に向かってこう言ったものです。
『おまえは、何もかも白黒はっきりさせようとする。
だけど、グレーもいいもんだぞ』」
やまんばはその話を聞いてびっくりした。
だって警察官だよ、その人。
白黒つけるのが仕事の人だよ。
その人が、自分の子供に対して「グレーもいいもんだ」といって聞かせる。。。
あれはよくない。こうでないといけない。って人は言う。
そういうときって、あるべき姿や理想の姿を前提としている。そして、そうでない現実にジレンマをもっている。そのジレンマって、摩擦を起こす。あるべき姿でない現実に憤慨して、それを直そうと躍起になる。だけど現実はなかなか、そうあるべき姿になってくれない。だからその人はストレスをためる。
グレーもいいもんだってのは、その『あるべき姿』、つまり白か黒かを、『どっちでもいーじゃん』って色にする。
限りなく白に近いグレーかもしんないし、限りなく黒に近いグレーかもしんない。そして限りなくどっちでもない、スミ50%かもしんね。
けっきょくグレーは、日本人の「ねずみ千色」くらいある色の世界観なのか。白と黒は2色しかない。選択の枠が2個しかない。だけどグレーは選択の枠が、千個もある。。。(!)
グレーを意識し始めると、あれはよくない、これでないとだめだ、というものが、すこしづつ薄まってきて、
「う~ん。。。究極、どっちでもいいのかもしれないなあ。。。」
というきもちになってくる。
というきもちになってくる。
すると、こうじゃないといけない!とかたくなにこわばっていたカラダも、何となく力が抜けてきて、少しずつ軽くなってくる。
これじゃなきゃだめだ!っていうのとはちがう、ニュートラルなカラダになってくる。
そのオヤジさんは、頭の柔らかい人だったのかもしれない。
白黒はっきりさせる現場をずっと見てきたのだ。
彼はそれの限界のようなものを垣間みていたのかもしれない。
2 件のコメント:
ははぁ、成る程。
以前どっかの美術館が、白から黒に微妙にグラデーション印刷された紙の、どこが白と黒の境界線か?って入館者に書かせ展示してたのを思い出しました。結構ばらついてましたよ。
おもしろいね。
私は、白黒つけないカフェオーレがスキ。(なんじゃそりゃ)
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