兄弟の中に罪を見るとは、
いけないことをしている人を見ると言うことであり、
自分の中に罪を見るとは、
自分もまたいけないことをしているのではないかと思っていることだ。
人はほとんど自動的に、問題を見つけてくる。
問題を見つけては、それを解決することが安心に繋がると信じている。
ところがその問題はいつまでたっても消えることはない。
問題を解決して平安があるのはほんの一瞬で、
ホッとしたのもつかの間、すぐその隣に新たな問題を見つけ出す。
そうやって私たちは一生膨大な問題に取り組み続けさせられる。
なぜそんなにも問題が立ち上がってくるかと言うと、
最初の罪を見ることとつながってくる。
私たちは、自分に罪があると思う限り、
必ず罰を与えようとするのだ。
罰とは、問題であり、それを解決するために勤しむこの時間。。。
つまり問題を見つけて苦しむ。これが罰だ。
一生これに取り組み続けてしまうのは、
罪があると言う前提になっているから。
先日ある人とやりとりをして、微妙に意見が食い違った。
ああ、そうだった。。
私があの時ああしていれば、
彼はこう考えることはなかったのに、、、。
私の中に後悔の念が現れた。
こうしておけばよかったのに、こうしなかった。
だからああなった。
ああ、しまった。私が間違っていたんだ。。。
ん?
ちょっと待てよ。
これ、罪があると言う前提で考えている。
私の罪と、彼の罪。
私の罪ゆえに、彼が罪を重ねる。
そこから導き出されるのは、問題と、それと必死で格闘する葛藤だけだ。
私は思い出した。
そうだ。私は罪を選ばない。
それを罪と見ない。
罪と見るとき、その先は見えていた。
ああなるだろう、こうなるだろう。。。
それは憂鬱なものしか想像できなかった。
しかし私が罪をそこに見ないとき、何が起こるだろう。
その先が見えない。お先真っ白。
運命の流れを聖霊に任せたのだ。
罪を見るとき、私は自我とともに考える。
そして予測できる悪い事態を思い描く。
自我と考えるときはいつもこれだ。
どこか見たことのある馴染みのある事態。
罪を選択しないとき、私は聖霊とともに考える。
それは全く想像できないものだ。
しかしワクワクする。何が起こるのか、楽しみになる。
私は後者を選んだ。
その先は、私は責任を取らない。
いや、私たちに一番責任があることは、どちらを選ぶか、だ。
罪を選ぶか。罪がないことを選ぶのか。
その責任はとんでもなく大きい。
これが私の責任重大な仕事だ。
絵:大天狗の孫
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