この時期、確定申告や花粉症で憂鬱になる。
自分の誕生日が近づくから嬉しかったのはある時期まで。
年が行けば行くほど、数字がどんどん加算されていき嬉しくなくなるし、
さらに前者の悩ましいものもくっついて、
子供の頃のように、
「は~るがき~た~は~るがき~た~ど~こ~に~きた~」
と、喜んでいない自分がいる。
とはいえ、薬も飲まずにいられるのはありがたい。
毎年だんだん症状も減ってきている。
そして心の状態と症状が関係していることもわかってきた。
心が平安でいる時、ひどい状態が消えるのだ。
部屋で仕事をしている時、症状がひどくなった。
異常にかゆい目。
かきむしると、白眼が膨らんでまぶたが閉められないまでになる。
だがその痒さたるや、尋常ではない。
鼻の中も変な液体でいっぱいになり、
それが喉を伝って、喉も異常にかゆいくなる。
首から上をぶった切りたくなるほどの堪え難い不快感。
いったん仕事を止めて、静かにする。
「私は体ではない。私は自由だ。私は今でも。。。。」
と、あらゆる文言を唱える。
そしてまた、この同じ症状を抱えている他の人たちにも癒しが訪れるよう祈り続けた。
徐々に症状が治まってくる。
10分後には、さっきまでの地獄は何処かに行ってしまう。
心と症状が因果関係にあることはこうした体験を通して知る。
症状が起こる。その症状をどうにか取り除こうとあの手この手を使って躍起になる。
これがさらに追い討ちをかける。
しかしその症状に対し沈黙を守るとき、それは去っていく。
こうした体験とは別に、もう一つ別な体験をする。
明け方、布団の中で痒さで喉をかきむしっていた。
頭は「かきむしると、あとでもっと喉が荒れるからかきむしらないようにしなければ、、、」と思う。
しかし心は真反対だった。
かきむしっていることを喜びとともにやっているではないか。。。
そのとき、かきむしっている人は私ではなかった。
例えて言うなら、リカちゃん人形に、喉が痒くてかきむしっている、
という役をやらせている感じ。
これをどう説明していいのかわからない。
私という肉体に入った私ではなかった。
肉体と私は別物だった。
かいているという実感はある。
しかしなんの恐れもなく、むしろ喜びでそれを見ている。
散々かいたけれど、朝起きると、
喉にかいた後のただれたようなものはなかった。
これは一体何?
ちょっと前、足の痛みが私の痛みでなかったことがあった。
肉体=私ではなかった。
痛みは痛みとしてそこにあるが、心にまったく恐れも不安もなかった。
肉体とくっついているから苦しいのだ。
肉体と私が別になることができる。。。
コースは、おもちゃと遊ぶことは卒業しなさいという。
子供がおもちゃと自分を同一化して、リカちゃん人形が私になって、
その世界で遊ぶことを、
もうこれはただの子どもの遊びだと気付いて、
その同一化から離れていきなさいという。
あなたはその人形ではない。
あなたは肉体ではないと。
これはすごい話だ。そうにわかには信じられない話だ。
だがほんの小さな体験を少しづつするたびに、
それは本当なのではないかと思えてくる。
そのためにも、症状に乗っかってどうにかすることから、
その症状に乗ることなく、
心の動揺を沈めることによる変化を見るほどに、
それがただの思い込みに過ぎないのではないかと思う体験を増やしていくことなのだろう。
もちろん私のように荒技を使うよりも、
優しいやり方で一歩一歩進む道もある。
むしろその方が確実だ。
ふとどきものの私は、
むしろおもしろくてこの実験を続けている。
絵:「水仙ちゃん」お茶のキャラクター
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