この世は、与えたら失う。失ったから、他から奪う。
奪われた側は、また他から奪うという法則で成り立っている。
そうやって奪い、奪い返されを繰り返す。
それは何かが足りないという巨大な欠乏感からくる。
その理由はコースで言えば、
神から離れたら?と思い浮かんでしまった神の子の強烈な罪悪感のせいだ。
欠乏感とは神がいないという欠乏感。
神から離れてしまったと思い込んだがゆえに、神がいないと信じ込んだ。
その思いは意識の奥深くに隠されて、実感などできないほどに忘れられている。
だけど「何かが足りない」という思いはずっと心に残っている。
そして神の子はこの世界を作り出した。
この物質世界で、足りないものを埋め合わせをしようと。
ところがもともと欠乏感から来た思いのせいで作られた世界だから、
与えたら、失うということになった。
仕事をすることは、自分の労力と時間を失う。
だから報酬というお金で埋め合わせをする。
そして支払った側は、また別の形でお金をどこかから奪おうとする。
だがその欠乏感で埋め合わせをしたお金や物質は、
いつも簡単に消えてしまう。
これがあれば幸せだったはずなのに、
いざそれが手に入ると、もうそのことは忘れてしまう。
そして一瞬満たされた思いは、また元の欠乏感に戻り、
「満たしてくれる何か」を探して心はさまよう。
それは死ぬまで続く。
死の直前まで「ああ、こうであったらいいのに」という思いを抱えて。
人は救われるために何かを行為する。
お金を得るために?
家を手に入れるために?
人に迷惑をかけないために?
人によく思われたいために?
犠牲を払うことは美徳のように思われている。
私は正直言って、犠牲は嫌いだ。
いい人のあろうとすることで、犠牲を払って、いい気持ちになる。
クライアントのいうことを嫌々でも聞くことで、
クライアントからオッケーをもらい安心する。
ずっと犠牲の精神でやってきた。
だけどもう限界。いくら犠牲を払ったって、
一瞬ホッとするだけで満たされない、救われない。
ある時、クライアントからの要望に、
受け入れた方がいいに決まっていると思いながら、
一歩も前に進めない私がいた。
もう無理。限界。いい加減にしてくれ。
私がどういう思いでこれを作ってきたのか。わかっていない!
怒りが爆発した。体が震えた。
もう何もできないと思った時、
正直にすべてを打ち明けた。
それは結果を省みたり、相手の心を思いやったりという、
いい人であろうとしない、初めての私がいた。
なぜかとても心は穏やかだった。
次の日、その元にある、私の信念に気がついた。
私は救われていない。
という思いだ。
私は何かが欠けている。
だからそれを埋めることで救われる、
内側が空っぽだから、何かを入れて満たす。
これが外からの何かを求めさせていたものだった。
ある瞬間が訪れた。
私は救われていない。。。。
本当だろうか?
私は、、、救われている。。。。!
一発逆転が訪れた。
それまでの考えが一瞬にして反転したのだ。
私はすでに救われているのなら、外から何で埋める必要があるのか。
もう満たされているのに、そこに何を足していくのだ?
それまでは、やることとは犠牲を払うことだと思っていた。もちろん無意識だけど。
だから心はギクシャクした。無理やりそれをやることであったから。
クライアントを喜ばせて、自分が安心するために。
それは恐れからくる防衛だった。
その恐れとは自分には欠けているものがあって、
救われていないという恐れ。
恐れは敵を外に見る。
クライアントという敵をなだめるために、犠牲という防衛方法で、自分を守っていた。
敵、味方という分離。
恐れは分離からくる。
(もとは神から離れた!という分離)
でも自分は欠けていない、救われていると気がついたなら、
何をやることも自然なことだ。
そこに犠牲などかけらもない。
ただ喜びで行為するだけなのだ。
足すためにやるのではなく、満たすためにやるのではなく、
すでに満ちているものを延長させるために!!!
救われていない。欠けている。
という考えは、自我の考えだった。
救われている。満ちている。
という考えは、聖霊のものだった。
私はあの瞬間、聖霊を選んだのだ。
それは思い込みではなく、真実だ。それだけが実在する。
神から一歩も離れてはいない神の子。
今でも私は神の中にいる。
絵:けんぽ 表紙イラスト 夏
3 件のコメント:
大丈夫カァーーー?
おーーーい❣️
大丈夫かぁ⁇
具合でもわるいのかぁ?
あねご!
大丈夫っす!
めちゃ腹たちましたが、
今はめちゃ幸せです!
心配してくれて、ありがとう〜。
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