小さい時から、闇ばかりを見てきた。
父が警官だったこともあり、小学生の時、同和地区を転々と引越した。
閉鎖的な地区に入る転校生。私はそこでいじめを知った。
差別される側から受ける差別。肉体的、精神的ないじめ。
(もともと人は何の違いもないのに)
そして家では父の暴力。
幼い無垢そうな子供達から大人まで、
人の心の闇はなんと深く、なんと残酷なのだろう。
小さな私はそれを体で感じてきた。
でも彼らを憎む以前に、彼らにそうさせたのは自分。
その自分自身の罪深さを呪った。
それはその頃度々私を襲った恐怖の感覚が、
さらにそう思わせたのかもしれない。
幼い私に、なぜか人を殺めた瞬間の記憶があったのだ。
鋭い刃物が人の体に食い込んでいく感覚、その時の大きな後悔。
大きな罪が、私を奈落の底に突き落とす。
ありありとした感覚が蘇り、思わず小さな両手を確認する。
この罪深い存在をどうすればいいのかと心はずっと苦悩していた。
そしてコースを通して、考え方が変わってきた。
実はこの罪悪感が、闇を見続けることになっていたのだ。
人間とは一体なんなのか?という大きな疑問から、
人間がどんなに残酷かを知ることによって、
人間とは何かを知ることができると思ってその罪を徹底的に調べるうちに、
人はその残酷さにだんだん魅了されていく。
罪をもっと見たい!と。
その仕組みは、私たちの中に見たくない自分への罪悪感が投影され、
外に闇を見たがっていたのだ。
そこに答えは見出せない。
なぜならそれこそが、自我が私たちにやらせておきたいことなのだから。
「この世界は残酷だ。ああやっぱり残酷だ。
それ見ろ。こんな出来事も、あんな出来事も、全てそれを証明しているではないか!」と。
そうやって、この世界を残酷なままに維持させて、
いつまでも問題をちらつかせ、その解決法に取り組ませてい続ける。
キリスト教は、イエスの磔をその祭壇に置いた。
ブッダの像は、修行中の姿だ。
いやいや。本当は違う。
イエスはみんなの罪をかぶって磔になった方を見せたいわけではなかった。
復活の方だ。
「死はない!」と教えた方だ。
そして、ブッダは苦しみの中で修行する方ではなく、涅槃だ。
寝っ転がって「あ~。極楽極楽」の方だ。
磔を選んだ人も、ブッダの修行中の像を作った人も、
みんなどこかで苦悩に魅了されている。
そこから離れること。
闇や罪から手を離すこと。
罪や闇ととっくまない。
スーッと後ろに下がるだけだ。
闇は無だということを納得するためには、
有るものを知らなければならない。
「無」というものを知っているということは、
必ず「有」をその前提に知っていることになる。
無が、無を知ることはできない。
有から見るから、それは無だとわかるのだ。
その有こそが、愛だ。
その愛とは、私たちが知っている愛など吹き飛んでしまうほどのとんでもないもの。
想像できない。
だけどそれが確かに有る。
それだけが実在する。
そこに視点を向ける意志を持つのだ。
それを教えてくれたのは、ハレルヤさん。
講義の時に言われた。
ハレルヤさん:「神は何と言っていますか?」
私:「え~。。。。えーと。。。それを言うの~?」
ハレルヤさん:「はい。神は何と言っていますか?」
私:「。。愛。。愛してます。。。って言ってるんでしょ!」
ハレルヤさん:「愛してます。。。つまり、愛、しってるんですよ!私たちは」
私:「あ。。。!」
注:ハレルヤさんは講義中時々、いやしょっちゅうダジャレを言う。
時々そのダジャレが高度すぎてわからないw
自分が神の愛に対して、愛されていると思うことに対して、何と抵抗していたことか。
私たちは本当はしっているはずの愛に抵抗している。
神という巨大なものに愛されていることを受け入れることを拒んでいる。
だからいつまでも闇と戦おうとする。
闇が消えるまで。
しかし闇を闇では消せない。
そこにひとすじの光が入った時、闇は一瞬にして消える。
その光を思い出すのは、あなただ。
絵:ひまわり「けんぽ」表紙イラスト
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