2016年6月12日日曜日

正直になることのおそれ



自分の内側に聞こえてくる声を聴くと言う思考の観察をしていると、自分がどれだけいろんな感情を持っているのかに気づく。
いかりや、かなしみや、いきどおりや、後悔や、おそれが次々に現れてくるのが見える。

そういう中で、「空気読み過ぎてそれを表現できない」自分を発見する。

私は小さい頃はいじめられっこで、親の肉体的体罰型しつけの両刀使いで育ってきたこともあって、こーみえて、人の目を気にする所がある。
好きなよーに生きてるように見えるやろ?これは長年の経験によるワザや。(どんなワザやねん)

ま、そんなワザがあるかどーかはしらんが、自分の内側にフツフツッとわいてくる感情をそのままにしておいて、
「ここはこんな雰囲気だから、乱さないように同じトーンで行こう」とか
「今はなんか暗い雰囲気だから、明るい空気を入れよう」とか、
それなりに空気読んできたつもりである(あたってるかどーかはおいといて)。

それがじつは、いじめられるのが怖いから、空気読んでたんや。。と気づくことになる。

今ここで正直に自分の心を話したら、みんなはどんなふうに思うだろう。
そしたらあとで陰口たたかれることになって、そしたらあーなって、こーなって。。。
と、どんどん妄想が広がって行く。

そのひとり妄想にぶるぶるっと身をふるわせて、
「いかんいかん。いつもの調子で行こう。。」と、
何事もなかったかのようにふるまっていた自分。。。

それに気がついた以上、もうおなじ道は歩けなくなった。

あらゆることに利点と欠点がある。
空気読むことは、たのしいし、うれしいことだ。なによりみんなとおなじ時間を共有することが出来る。

でも。。。

陰口を叩かれるかも知れない。いじめにあうかもしれない。
だけど、そうなるかどうかなんてだれにもわからない。

自分の心に正直になろう。
自分はこう感じたんだと正直に語ろう。
そこから先は、どうなってもいい。



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