自分の思考がつねに否定にむいていることに気がつく。
なにかやらなければいけないことがあると、
「めんどうだな。。」
と、やることをおっくうがる。
反対に、なにもやることがないと、
「なにかやらないと。。」
と、心があせって、何かやることを探しはじめる。
だけど一旦やることを見つけてしまうと、とたんに、
「めんどうだな。。。。」
と、やることをおっくうがるのだ。
自我はこうやって、自分をつねにあせらし、おどし、怖がらせ続ける。
私たちはこの自我の動きに、完全に捕まってしまっている。浮かんだ言葉に乗っかって、あせって、おっくうがって、こわがる。
自分の内側から聞こえる声は、自分のものだと思い込む。自分からでて来たから、正しいことを言っているに決まっていると信じて疑わない。
だけどよく聞いていると、その声は矛盾だらけだ。
こうしたほうがいい、というので、そうすると、いや、そうしないほうがいいと、言ってるそばから撤回してくる。
自我はしたたかにかわしてくるので、一見矛盾がないように見える。だがそれも冷酷に観察すると、自分をこけ降ろすことに集約しているのに気づく。
自我の仕事は、自分をこけおろし、おどし、おまえは小さい存在だとつねに言い続けるのが仕事のようだ。
この声に何の意味もないことをずっと言い続けているのが、仏陀やその他多くの賢者たちだ。
座禅や瞑想や内観は、その声を聞き流せ、あるいはとめろ、あるいは観察しろという。
滝行などのきびしい修行も、その声を吹き飛ばせと言ってくる。
ある人が言っていた。
「自我の声は、心の中を吹く風だ。私たちは町に吹く風をいちいち意識して『これはどういう風だ?』と考えたりしないだろう?それと同じだ。ただ風が吹くにまかせる。それはただここにきては流れていく風なのだ」
ある人が言っていた。
「これもまた過ぎ去る」
やまんばも人と出会い会話をしたあとで、ほんの小さな罪悪感がやってくる。
ああいう言い方で良かったんだろうか。気を悪くされたんじゃないだろうか。と。
そのおもいに気がつき、「これもまた過ぎ去るのだ」と意識すると、ものの1分もかからないうちにその気分は消えていることに気がつく。
だがもしそれを掴んで離さなかったなら、その罪悪感はどんどん膨らみ、自分の中で言い訳をし、正当化し、今度は相手を裁きはじめる。そして人を憂い、社会を憂い、未来をも憂いて、はては自分の人生を悲しくしていく。
自我の声は、現れては消えていく風のようなものらしい。
それを爆風にするか、微風にするかは、それをとらえるその人の反応しだいなのだろう。
ああいう言い方で良かったんだろうか。気を悪くされたんじゃないだろうか。と。
そのおもいに気がつき、「これもまた過ぎ去るのだ」と意識すると、ものの1分もかからないうちにその気分は消えていることに気がつく。
だがもしそれを掴んで離さなかったなら、その罪悪感はどんどん膨らみ、自分の中で言い訳をし、正当化し、今度は相手を裁きはじめる。そして人を憂い、社会を憂い、未来をも憂いて、はては自分の人生を悲しくしていく。
自我の声は、現れては消えていく風のようなものらしい。
それを爆風にするか、微風にするかは、それをとらえるその人の反応しだいなのだろう。
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