寒空の下、今日も用もないのに畑にいく。冬はやることがない。通常の畑だったら色々作業があるらしいが、やまんばの畑はやることがない。だからただ眺めにいくだけ。
先日植え替えたサンチュを覗く。
友だちがホームセンターで買った育苗用の土に種を蒔いたらアホほど芽がでて、いそがしーのでほっておいたら虫に食われまくってた瀕死のサンチェだ。
やまんばは「そんな虫が食ったのいらねーよー」とぶつぶついいながら、育苗用の土を全部落として寒空の畑にイヤイヤ植え替えた。
しかもその畝の上には大きなケヤキの木があって、落ち葉がふりそそいだ。全体的に落ち葉色した畝の所々に、緑色の葉っぱがちょろっとみえている。
「あれ?育ってんのかなあ。。。」
ほとんど気にもとめていなかった(よーするに捨ててた)、サンチュの畝。ケヤキの葉っぱでフタがされている。どれ、おひさんにでもあててやるか、と手を差し出したとき、何かを感じた。
めくると落ち葉の下にはサンチュが育っていた。
他のをめくるとやっぱり葉っぱの下に元気なサンチュがいる。
あ、落ち葉が暖かいんだ。
落ち葉をめくるとき指先はそれを感じていたようだ。頭ではわからなかったことを身体は感じている。
ここは夏に何も植えず、引っこ抜いた草を置く場所にしてほったらかしておいた場所だ。サンチュを植えた時は草を引っこ抜いて、その上に枯れ草を厚く敷き、植えるところだけ草をよけてあなぽこをあけ、突っ込んだだけだった。その上にケヤキの葉っぱが落ちて、それがフタとなり、ケヤキの葉っぱのぬくもりが、暖房の役割をして小さなあったか空間を作っていたのかもしれない。
このあいだのジャガイモといい、そんなの教えてもらってないよってなことがおこる。ケヤキの落ち葉が暖かいなんてしらなかった。指先にフワンと暖かい空気がまとわりついて来る感じだ。
やまんばも含めて、人は誰かに教わろうとする。だけどその「答え」は誰かの畑の答えであって、自分の畑の答えとは限らないのだ。それはお偉い学者さんの統計学上の答えさえも、人それぞれの畑の答えにはならないのかもしれない。
これは畑だけのことに限らないんじゃないか。石けんなし生活だって同じことがいえる。
どこかの誰かの答えを探しにいくのは、ひょっとしたら「気分的な楽」をもらっているだけで、その人のためのほんとの答えは自分の足下や、指先や、感覚や、直感にあるんじゃないか?
答えを外に求めるのは、トンネルビジョンなんじゃないだろうか。ワイドアングルビジョンの中にこそ、ホントの姿が現れているんじゃないか?
だからドンファンは、
「モノそのものを見るんじゃない。モノの影を見ろ」
といったんじゃないか?
だからドンファンは、
「モノそのものを見るんじゃない。モノの影を見ろ」
といったんじゃないか?
わしは思いっきり何かを見落としているんじゃないか。。。
2 件のコメント:
自然の強さ!!まさに、サンチェベリーマッチだね!!
すごいよね、自然って!
食べて生かされ、育てて生かされ。。。
まさにサンチェーベリーマッチだね!
コメントを投稿