恐れが、その恐れるものを呼ぶ。。。
やまんばは畑でそーとー悩んだ。
頭の中は四六時中畑、畑、畑。土がどーのこーの、草がどーのこーの、種まきがどーのこーの。。。。と延々と。。。
最初はただやりたかった。
福岡正信さんの「自然に還る」の本をNYのブックオフで見つけたあの衝撃。山は農薬も肥料もないのに植物でいっぱいじゃないか!それを野菜で実践したい!
畑をやりながら、いろんな情報が入ってくるにつけ、いつのまにか農薬は悪で、肥料も悪で、慣行農法も有機農法も悪という前提に立ってしまっていた。「これがわるいのだから、こっち」という二極的思考になっていた。そしてやまんばが「これはよいこと」と「判断」をした自然農、たんじゅん農法、無肥料栽培へと移っていったのだ。
それはまさにシャンプーがからだに悪いからやめよう、という発想と同じだ。やめる理由が、善悪の判断からおこなわれている。そこには肥料や農薬に対する恐怖があった。
そしてもうひとつ。
近所の畑をやっているおじさんたちを見返してやりたいという欲。
「おめえ、肥料もやらんでどーするんじゃ。野菜は肥料で育つんだ。さっさと入れんか」と言われてきたことへのくやしさ。「こんにゃろー、今に見ておれ!」って。
私の方が正しいのだ。だから私が正しいという事をぜひとも証明したい!というエゴだ。
「これはいけないからこうする」という発想に基づいた行動は、そこに恐怖を持っている。するとその恐怖をつねに持った状態でおこなうから、その恐怖するものを呼んでいるのだ。自分でイヤなことを呼んでおいてイヤなことがあるとパニクる、というしっちゃかめっちゃかを生みつづけているのだ。
これは「お金持ちになりたい」と願う人の心の前提が「自分は金がない」と信じているから、いつまでたってもお金がないのと同じ現象だ。
考えて考えて疲れ果てた。
するとふとやってきた。
最初はどうだった?
そう。。最初は、ただおもしろかった。ただ種を入れることが面白かった。そしたら芽がでた。芽が出ることが嬉しかった。次第に大きくなった。大きくなることが嬉しかった。。。。
まわりの人のことなんか考えてもいなかった。巨大になった小松菜や巨大になったタアサイが、ただおもしろかった。
それから。。。
そのよろこびを再び。。。と思いはじめたのだ。
近所のおばちゃんの驚く顔をまた見たいと思ったのだ。ヘヘヘンって気分になりたいと思いはじめたのだ。。。。
すると肥料が虫を呼ぶという事をしりはじめたのだ。虫との戦いは肥毒なのだという言葉が現れてきたのだ。畑に撒かれた大量の窒素が流れ出し、川を流れ、海まで到達し、海の生態系を壊す。。という事まで「知った」のだ。。。
これはいけないことだと思いはじめた。農薬も肥料も悪だと思いはじめた。悪は使ってはいけないとおもいはじめた。
だけどうまくいかない。
一番最初のあの大豊作はどこへ行った?全くとれない畑はどうしたことだ?そうやって自然農、たんじゅん農法、無肥料栽培へと移行していった。頭は四六時中畑のことを考えていた。。。。
石けんなし生活がヒントになったのはこれだ。
石けんが悪とおもってやりはじめたことでも、石けん使いわないことを大いばりしたかったわけでもなかったのだ。ただ人間もっとシンプルでいーんじゃないか?という最初の発想があっただけだった。
だから、畑、もっとシンプルでいーんじゃないか?
いかに楽に、いかに楽しく、いかにテキトーにできるか、という事を探求していーんじゃないか?
そこには農薬の悪も、肥料の悪もない。正しいもまちがっているもない。
初めはもっとシンプルだったのだ。未来を予測するでもなく、過去の汚点を嘆いたり、過去の栄光を思い出して、今を憂いたりもしていなかったのだ。
あの巨大な小松菜はそれを教えてくれていたのかもしれない。
頭が畑のことをおもいださなくなっていた。
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