2024年1月3日水曜日

「罪はない」ということ

 


奇跡のコースを学ぶとき、陥りやすい点があるかもしれない。


ひとつは、罪は元々ないのだから、本来あるものだけを見る。

真実は愛であり光であるのだから、それに包まれていこうというもの。


もうひとつは、それまで罪や罪悪感など意識してなかったが、

本を読んで自分には罪悪感があることを発見し、

それを取り除かなければと躍起になるもの。


私は後者の方。

元々自分に罪悪感があることは知っていたが、

本を読むうちにそれがはっきりと手に取るように見えてきて、

とにかくこれをなくすことに全神経を使うほどになっていた。

ところが罪をなくすことに専念するとは、そこに「罪がある」と自ら証明することになる。

それは自分だけでなく、他人の罪まで発見してしまう。


だが前者の方も、実は罪を感じているからこそ、それを愛と光で覆い隠してしまうのだ。


この二つは、隠蔽するか、赦しで消そうと躍起になるかの違いであって、

どちらも「罪があると信じている」ことに変わりはないのであった。



「罪はない」とはっきり知るところにどうやっていくのか。

はっきり言ってわからない。それは人それぞれのプロセスによる。


「あ!罪なんかないんだ!」と一瞬気がついたり、

次の瞬間には罪の中にどっぷり浸かっていたり。

その行きつ戻りつの中で、だんだんと向かっていくのだろうか。


コオさんに聞いたことがある。

「コオさん、どうやって「罪はない」ということを知ったのですか?」

「ぼくは幸運にも何千、何万人という人に出会ってコースの話をしてきた。

その間に気がついてきた」

というようなことをおっしゃっていた。


「罪はない」ということを知るには、

とうてい頭や理屈や知識で知る次元ではないことをうかがわせてくれる。




罪悪感を取り除こうと日々奮闘していたあるとき、

「これ、自分を『怖がらせごっこ』しているだけなんじゃないか?」と思った。


「ほら。どうする?お前にはまだ罪があるぞ」

という声を聞き、自分に罪を見る。


この声自体が私を罪人に仕立て上げている正体だった。


私は『怖がらせごっこ』のゲームに参加していることさえ忘れて没頭していたのだ。


それ以来、その声に怯えることをやめた。その罪は何の根拠もなかったのだ。


やめていくにつれ、自分だけでなく人にも罪を見なくなってきた。

これはとても心が軽くなる。あちこちに喜びが見え隠れする。


そうして「罪はない」ということが100%思い出されてくるのだろう。




絵:「Strawberries and Crime」ミステリー表紙イラスト




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