先日書いた絵本の話に出てきた圏央道環境問題や風力発電問題などについては、
実は私は反対や賛成のどちらの立場もとらない。
たとえそのどちらについたとしても、私には一抹の寂しさを感じる。
実際よそから来た反対派の人々は、いつの間にか消えていった。
噂ではまた別の反対運動に参加していると聞く。
今も世の中ではいろんな問題が溢れている。
問題解決に躍起になるのは、
「この問題さえ解決できれば幸せになれる」
という思いから来ているのではないだろうか。
だけど「その問題」が解決されたように見えても、
また新たな問題が浮上してくる。消えた試しがない。
問題を問題として捉えていけば、その問題はさらに大きく見える。大きくなった問題をさらに取り組めば取り組むほどに手がつけられない状態になり、精魂尽き果てて諦めてしまったあと、ことはなかったかのようになる。
これは問題解決なのだろうか?
それは自我に取り組めば取り組むほど、がんじがらめになって身動き取れなくなるのと似ている。
実は自我にはそれが目的なのだった。
自我/問題に取り組んでくれるほど、自我/問題が存在できる。
だが精魂尽き果てて、取り組めなくなった時、
自我/問題の暴走はなかったかのようになる。
この世にはいろんな選択があるように見える。
Aがダメなら、B。BがダメならC。Cがダメなら。。。
だけどその問題解決のための選択は、
あちらを立てればこちらが立たず、こちらを立てればあちらが立たずの矛盾だらけ。
問題を抱えた以上、そこに幸せはない。
かつて反対運動が盛んに行われていた場所に大きな絵の看板があった。
それは真っ赤な顔をして怒り狂った大天狗のお腹に開けられた二つのトンネルの絵。
「高尾山を死守する!」と書かれていた。
その看板も撤去され上空に立派な橋がかかり、足元に小さな公園がある。
私はよくその高尾山の土手っ腹にあいた穴を車で通り抜ける。懐に入るような心地よさがある。
「白い丘のモミジ」に出てくる自然界の彼らは、私たち人間の視点を超えている。
一見諦めにも似た彼らの行為は、AかBかと水平に選択するしかない人間の選択枠をこえ、垂直の流れにある。それは戦場を上から眺める視点。
自然がどう壊されていこうと、見えている世界のその奥に真の美しさがあると言うことを、彼らは語らず私たちに教えていた。
それは決して壊されることなどないと。
絵:第38集アンデルセンのメルヘン文庫「白い丘のモミジ」より
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