今から22年前に出版されたわたしの絵本を紹介します。
今から思えば、よくこんなぶっ飛んだ絵本を出版してくれたものだなあと、あのとうじの出版社、そしてそれを見つけてくれ、出版にまでこぎつけて下さった編集の方に本当に感謝します。
この本は、「言葉のない絵本」として3部作出されました。
つまり、言葉がありません。
その絵本を手に取った人が、その人独自の解釈でもって、物語をつむいで下さいという、かなり前衛的な絵本でした。
その3部作を紹介したいと、あるテレビ局の方から電話があったこともありました。残念ながら、わたしの事情でそれが紹介されることはありませんでしたが、出版社さんには申し訳なかったと思っています。雑誌などで紹介されましたが、その後廃刊になってしまいました。
この絵本にはわたし個人のたくさんの思い入れが入っているのは知っていましたが、
久しぶりに開いてみると、今の自分が考えていること、めざしているもの、探求していることが、そのまま絵になって表されていたことに驚きました。
この絵本の主人公は、ひとり車に乗って旅にでます。
開かれてすぐ気づかれると思いますが、この主人公には顔がありません。
絵本やマンガには、主人公は顔をもって現れてきます。読者はその主人公の様子を外からながめて、その主人公と一体となって、物語の中に入って行きます。
ですがこの絵本は、主人公の顔がありません。
それはまさに今、私たちが見ている世界そのものと同じ状態なのです。
私たち自身に見えているのは、目の前のあらゆるモノたちと、自分の手、腕、脚、身体、です。
かろうじて見えるのは、ぼんやりと見えている鼻?
私たちは「自分」と指さす、「自分」の象徴である「顔」が、どうやっても見えないのです。鏡に映ったものは逆さまになっている。写真で撮ろうが、水に写そうが、直接的には見えないのです。
自分であるはずの象徴が、私たちには直接見えない。
一体、誰が見ているのでしょうか。
直接見えないこの「自分」とはいったいなんなのでしょうか。
そしてもうひとつのこの絵本の特徴は、この主人公は目の前で起こっている出来事を、
ただ観ているだけなのです。
魅力的なお姉ちゃんにも関与しません。
ただ観照している。
すべての出来事に参与することなく、感情を動かすことなく、ただ淡々とこの世を観ているだけなのです。
このことにわたしは驚きました。
22年前、わたしはすでに観照者であることを無意識に知っていたのです。
いや、子供の時から、すでに知っていた。そして、ただそれは忘れ去られていただけなのだと。
目の前をUFOが飛ぼうが
浮浪者と出会おうが
主人公はどこに向かっているのでしょう。
さらには、たった一枚のコインに運命をゆだねます。
自分で試行錯誤しない。
この世の流れに、完全に身を委ねているかのようです。
どんどん怪しい世界に入っていきます。
それでも進んで行きます。
そして。。。
その後、この主人公は車を降りて、どこへ向かったのでしょうか。
ここからは、読者自身が想像を膨らませて下さい。
しかし幼い子供たちはちがいます。
目の前におこる出来事に、何の解釈も入れず、ただ興味深げにながめているだけなのです。そこにはこの世界にたいする深い信頼があります。
「この世」対「自分」という分離したものは存在していません。この世も自分もおなじものなのです。
この絵本がその視点に立って観ていることだったのだと、22年後に気がつきました。
この絵本は、大人のための絵本だったのです。
出版された当初、読者の方々から、嬉しいお便りをたくさん頂いていました。
その中で、息子がこの絵本を見ながら、次々に新しいお話を作ってくれるというものがありました。
子供たちは天才です。大人の固くなった頭を柔らかくほぐしてくれます。
幼かった頃、いろんなものに恐がりもせず触れていた自分を思いだします。
母がいうには、よちよち歩きの頃、アオダイショウの頭をなでていたそうです。
日々のいろんな気づきが、わたしを柔らかくしてくれています。
絵本「ことばのない絵本シリーズ/ロードムービー」
1995年 アリアドネ企画 三修社
2 件のコメント:
ああ!
すばらしい絵本ですね。
なんだか十牛図を思い出しました。
途中で車を降りて、街(=物語)と関わりあうことが一般に言われている「人生」なのかなあ・・・
と思いました。
匿名さま
ごめんなさーい。
今までコメント待ちに気がつかなくって。。。。
十牛図!
すごい哲学を思いだして下さいました。
ちょうどきのう十牛図についての動画を見ていた所でした。
そんなふうに重みを感じていただき、光栄です。
そうかもしれませんね。
車を降りて、新たな「人生」に向かって行かれたのかもしれません。
ありがとうございました。
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