ラインスタンプ作ったら、ラインはじめちゃって、そっちが楽しくって、ちっともこっちを更新してないやまんばです。すいません。
ラインは知っている人たちのとやり取りなので、気兼ねなく書けるけれど、ブログは知らない人も読むので、言葉をどうしても選んで書いてしまう。その不自由さがあるのをラインをやって知った。
けれども、ノリでやり取りしているうちに、大事な部分を一瞬で流していってしまうのも、またラインの弱点でもある。そういう意味では、ブログは自分が考えていることをじっくり表現できるので、自分がなにを考えているかを外から見ることが出来る。
どっちも長所短所があるんだな。
若いときからずっと「人生ってなんだろう」と考え、その答えをさがし、ありとあらゆる本を読みあさったけれど、今になって、その答えなんかないんだなっておもいはじめる。
農薬も肥料も入れない自然な形の畑をやり、その「答え」を探してやっていたけれど、そこにも「答えはない」んだなとおもいはじめている。
そもそも答えがあるはずだ、と考えていたのは、小学校のときから、「質問」と「答え」はセットになっていたからかもしれない。
「なぜ?」と聞かれると必ず答えなければいけなかったし、「なせ?」のあとには、ちゃんと「それはね。」と「答え」が用意されていたからだ。
そして「正解」を求めて人々はうろうろする。
どれが正解?
どこが正しい?
どの人が言ってることが正しい?
どの店で買うのが正解(お得)?
どのやり方が正しい?
「正解」どおりにやらないといけないのは、「まちがった」ら、苦しいからだ。損するし、恥ずかしいし、いたいし、傷つくし、ハラが立つし、心配するからだ。
「正解」は安心をもらえるからだ。
やまんばはその「正解」を求めて苦しんだ。
だけどあるときおもったんだ。
質問への正しい答えは一個しかない。
けれども、まちがった答えは、10個も100個も10000000000個もある!
これ、すごいことじゃない?
たった一個の正解を求めて苦しむことよりも、そのまわりに山ほどあふれている「まちがった」ことを選ぶこと方が、よっぽどあっちもこっちもあるし、楽で自由なんじゃないかと。
なぜ「正解」にこだわったんだろうって、おもった。
正解にこだわるから苦しかったんじゃないかって。
そのまわりにある無限の「まちがった答え」に目を向ければ、どこへどう行こうとまったく自由じゃないかって!
「君は、まったくまちがっている!」
そういわれて、
「わはは、、、、、わははははは~~~~~~っ!」
って、思いっきり楽になったやまんばだった。
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