やまんばは、自分の欠点とか問題点ばっかり見てきたなあ~とおもう。
その欠点を克服できたら、もっとお金が入るし、もっと仕事が増えるし、もっと立派になれると信じて、ずっとがんばっちゃってきたんだ。
じっとしてても、自分の問題点を探すことをやり続けていたし、仕事をしている最中でもあそこが問題だ、ここが欠点だと、ものすごい量の言葉と思いでいっぱいになっていたんだ。
そんな自分に気がついた時、すごく愕然としたんだ。
「こっ、、これはなんなんだ!」
あたまとゆーか、からだとゆーか、どこからあふれて来るのかわからないけれど、全身から問題点探しと、罵倒の嵐で押しつぶされそーになってたんだ。
よくその言葉を聞いていると、何人かが言い争っている。まるで井戸端でおばちゃんたちが、
「この問題児をなんとかせんといかん。そのためにはまずこいつの欠点を洗いざらい引き出してきてだなあ。。」
「いやいや、そんなもんじゃ手ぬるい。こいつにゃ、どばっときつい一発をお見舞いしてやらんと、気がつきゃしないのさ」
と、ひたすら人のことつかまえて、いいたいほーだいだったのさ。
最初はね、ほとんど気がつかなかったんだ。
あ~あたし、罪悪感と自己嫌悪、つよいほーかもしれん。。ぐらいだった。
ところが、その罪悪感に気がつきはじめると、だんだんと順序立てて、芋づる式に、ドンドン出てきたんだ。
あの、ほら、例えて言えば、「千と千尋の神隠し」の千が、お風呂でヘドロみたいな神様に突き刺さってた金属みたいなヤツを引っこ抜いたら、どどどどどどおおお~~~~って、とんでもない量の、とんでもないもんがでてきちゃったでしょ?あんなかんじ。
あ、ぜ、ん。
どんだけ罪の意識もってたんだあああーーっ!って。
んでね、こりゃ、いかん。手に負えん。どーすりゃいいのさーっ!って、バタバタしたわけ。
何気ない行為ひとつにも、罪悪感や自己嫌悪が怒濤の嵐。
朝、目が覚めた瞬間から、
「私何かまちがったことしてなかった?」とか
「ああ、あんなことしてしまった。。。」とか
「かあちゃんに悪い事している。」
「かあちゃんに悪い事している。」
とかの言葉で始まるの。
止めようとするでしょ?止まんないんだな、これが。
逆にでかくなる。
もう七転八倒なわけ。
探したわよ、あらゆる方法、あらゆる本、あらゆる教え。
んでね、いわゆる賢者さんたちの言うこと、み〜んなバラバラなんだけど、なんか共通のことがあったのさ。
たとえば、あるがまま。
たとえば、手放し。
たとえば、赦し。
たとえば、あきらめ。
なんかが共通してない?なんつーか、無抵抗感つーか。
言葉ってさあ、あたりまえだけど言うことできるから、かんちがいしちゃうのよね。その言葉をしゃべったら、さもそれができているかのよーに(笑)。
「あたし、あるがままだから」とか、
「あたし、もうあきらめたわ」なんて。
これ、実際は言葉でしゃべってるだけだったりする。言うだけは簡単。案外そうやっちゃってるだけなのよねん。
だけど、ほんとにあるがままとか手放しができたら、これすごいことなのさ。
そう、自分でそれを実行する。
どうやって?
抵抗するのをやめる。
罪悪感の言葉に乗っからない。自己嫌悪の言葉に乗っからない。
無抵抗になる。
井戸端会議のおばさんたちの声が聞こえたら、
「あーほれほれ」と、ほっておくんだ。
すると、風が吹いてどっかに行くよーに、フェードアウトするんだな。
たとえば、「私なにやってんだろう。。」
という言葉が聞こえたら、
「ああ、まただ、、また言ってる。。」
とつぶやいたとすると、その声に抵抗している。
その抵抗ではなく、
「おお?自我がしゃべってるぞお。なになに?」
と、興味を持って見つめてみる。
たとえば、怖いと思ったら、その怖さに抵抗する自分に気がつく。
私たちは無意識に、いい悪いと判断をする。怖がることはいけないことだと判断をする。その判断によって、怖がる自分に抵抗しているのだ。
どうも、それじゃちっともらちがあかないんだな。
怖がったら、怖がっている自分をみつめる。直視する。味わう。
すべては抵抗せず、味わうことのようなのだ。
やまんばは自分自身に抵抗していたのさ。問題だ欠点だらけだって。
そしてその問題だという言葉にさえも、抵抗していたんだ。(ややこしいやろ?)
だから無抵抗。
どんなふうにあたまの中で言葉が出てきても、そのままにしておくことをはじめたわけさ。ほお。そーか。それで?って。
心の中に浮かぶ言葉は自分の声だと思っていた。自分のアイディアだと思っていた。
ひょっとしたら、それはなんでもないそこらの風かもしれない。
そしてその風に、わしらはとんでもなくふりまわされてきたんだ。
それに乗っかって、抵抗して、暴れて、苦しんで、悲しんで。。。。
なんとなく、無抵抗に日々を味わっていると、なんか穏やかにすべてが過ぎていくんだ。
平らになるっちゅーか、自分という感覚が消えていくとゆーか。。。
すると道を歩くときのまわりの風景が変わって見えるんだ。草がうつくしいコラボをしていたり、道に落ちているゴミがうつくしく見えたり、風の中に甘い香りがしたり、お尻にくっついてるソファがくすぐったくておもしろかったり。
生きてるなあ~って、おもしろいなあ~って。
問題ってあったっけ?なあんて。
そんなかんじです。
あたま、おかしくなったんかな?
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